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    AntiqueとVintageとの出会い

    Antiqueとの出会いはカフェバー

     高校2年〜20歳頃まで、エスプレッソコーヒーを飲みに通っていた近所のイギリス・アンティークカフェバー「カフェ・ル・モンド」でアルバイトしていました。

     *先見の目を持つマスターは私が辞めて4年後の1986年頃、店舗をスタッフに譲り、早々に古本の世界に転業。集めた玩具のコレクションは「なんでも鑑定団」の鑑定士、北原 照久氏の元へ渡った。店は2020年頃廃業

     当時としては、本格的なアンティークカフェ(夜はバー)は珍しく(ましてや板橋区)マスターとママさんは、新婚旅行でイギリスから大量にアンティーク家具と、当時にしては珍しい100万円もするエスプレッソコーヒーマシーンを日本に持ってきて、細部にこだわったお洒落な店造りをしました。レジもアンティークなのに無事に使えます。

    マスターはイギリスから軍用のレトロのバイクをついでのように買って乗っていました。

     バイク好きが集まり夜、みんなで走りに行くのが日課。そして「チャップリン」や「自転車泥棒」などの映画を店内に流していたので、映画好きなお客さんでいつも満員でした。

     最初は、美味しいエスプレッソコーヒーに惹かれて通っていた私は、そのうちに触れた事がないレトロやAntiqueの世界に惹き込まれて、バイク乗りのお客様と仲良くなり、ついバイトとして手伝ううちに、最終的に調理師の資格を取ったお店です。

     その時にマスターより直々にアンティークのイロハを教わりました。代々木のフリーマーケットにも連れて行って貰って買い方のコツまで教えて貰いました。

     トレンドに乗せられる事に嫌気がさしてきた私は、古き良き物に惹かれ、自分なりのファッションや素材の良さ、希少価値の上がる逸品ものに目覚めました。

     数年後、目利きで先見の目を持つマスターは、早々に古本の世界に転業。

    (その後、古本ブーム、高値時代が到来。先の先を読む目は抜群でした)

      それまで日本で集めて店内に飾ってあったレトロな玩具のコレクションは「なんでも鑑定団」の鑑定士、常連でもあった北原 照久氏の元へ渡りました。

     1986年4月、横浜山手に「ブリキのおもちゃ博物館」を開館した時にマスターのコレクションが並んだのです。 ▶️北原コレクション

    *北原氏は何度も店に来てマスターに譲ってくれるよう懇願しているのを見かけました。

     北原氏の自己紹介に「古いおもちゃや広告物や当時は殆どの人が見向きもしないモノに魅力を見いだし、ありったけの情熱と愛情を注ぎ続けるその生き方。」とありますが、まさに、マスターもそんな感じの人でした(笑

    サステナブル

     高卒で働いた会社員生活1年間。

    →起業のきっかけ<初代前レースクイーン?>

     ライダーへの夢は、教習所でバイクを起こせず、そのため免許が取れず、夢破れ😭

     スピードというトレンドを追い求める事を諦めました。

     この時点から正反対のAntiqueに180度の方向転換をします。

    *一緒にファッショントレンドを追い求めてた仲間は、その後、ジュリアナ東京に行きました(笑

    未来より過去へ。新しい物から古い物へ。

     アンティークカフェバーのマスターの影響が大きかったと思います。

     サステナブルという言葉が登場する前に、環境への配慮も感じていました。トレンドを追い求める大量生産、大量消費の環境への疑問から、古き良き物に方向転換したのです。

    →サステナブルファッションへの取組み(Gucci、CHANEL)

    アメリカで偶然「Vintage」と出会う。

     大好きなAntiqueがあるヨーロッパは、円安でなかなか行けないので、少し円高になった、アメリカに行く事を選びました。 

    企業のきっかけ<そして私はバイヤーになった!??>

     アメリカで、ミラクルを起こして、Antiqueより歴史が浅いけれど、手に入る値段で買える個性的な「Vintage」と出会います。

    *Antiqueは一般的に100年を超える骨董的な物ですが、Vintageはそれを超えない、戦後作られた大量生産品ではない丁寧な作りと上質な素材の逸品を言います。

     1人で運転して訪れたローズボールフリーマーケットや、お洒落なな西海岸の古着屋たち。

     そこには、戦後の貧しかった日本人の知らない50年代から70年代の、アメリカの豊かで豪華な時代のファッションがありました。

     戦勝国ならではの華やかなファッションやインテリア達。

     それらVintageのアイテムは個性的であり、他の人とは異なるオリジナルなスタイルを作り出すことができます。

     そして、ひとつひとつが巨大な市場の中で、宝探しのように見つけたvintageアイテムには独自のストーリーとエネルギーが宿っていて、心を打たれました。

     そこからは、アメリカで仕入れた品物を、日本のフリーマーケットで売ったり、古着屋に卸すというバイヤー業が自分の仕事になっていきます

     そして何度も行くうちに海外では、新品よりも古い物に重きを起き、antique、vintageの文化が当たり前のように根付いて存在している事に気づきます。

     アメリカ、そしてヨーロッパでは、お洒落な人ほど、古い物を愛しているんです。

     特にヨーロッパでは歴史を重んじている国なので、古ければ古いほど、車もお高いし、泊まるホテル代も、、新築より格段に高い。 歴史は重いのです。

    1337年建設の由緒ある宮殿内の、GucciMuseo ↓

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    *Rococoのお品はMuseoに寄贈されております→詳細

    Vintageの持つ魅力を皆様と。

     バイヤーの経験を通じて、Antique、Vintageの持つ魅力を日本に伝えて共有したいという強い思いが生まれ、

    原宿の隣の下北沢に 自分で古着ショップを持ったのは、その翌年の1987年。

    初めての古着屋経営はミラクルの連続! 執筆中

     下北沢と高円寺に色々なテーマを持つ古着を中心とするVintageShopを次々と運営しました。

     そしてDCブランドもアメカジ(アメリカンカジュアル)もロカビリーも、スケーターも森ガールな店も展開してきましたが、、

    SENKEN

    2002s繊研新聞

     目まぐるしく変わる流行を目の前で見てきて、原点に戻りました。

    年を重ねて、色々なファッションを楽しんできて最終的に辿り着いたのは、、。

     古き良きVintageの中でも、オールドグッチを初めとするハイブランド品。

     当時、欲しくても高価過ぎてあまり買えなかった憧れのブランド達です。

     ここまで来ると、毎年着ても飽きませんし、特にバッグは季節も関係ありません。

     100年前のAntiqueとなると、なかなか生き残っていないので、それはインテリアとして集めるとして。

    (Rococoの照明は、100年を超えるmullerのシャンデリアやガレ。シャガールの絵もございます)

     ▶️オールドグッチとシャガールの融合

     50~80年代のVintageファッションには、戦後の豊かな華があり、個性があります。

     中でもヨーロッパのハイブランドのVintage品は、上質な素材を使い、職人さんが1点1点作り上げた、風合いを持ち合わせています。 

     だからトレンドに振り回されず娘の世代まで伝える事が出来ます。

    Rococoでは・・

    現在、主流で集めて販売しているのは、私が好きなヨーロッパの90年代までのハイブランドの特にオールドグッチ。

     アイテム的に人気のバッグを取り扱っているため、高円寺のRococoの1店舗だけです。

     国内外から一点一点、厳選して取り扱っています。

     その分、予約制にして、1人1人のお客様への丁寧な接客を心掛けています。

     また、遠方の方へも届くようにオンラインショップも力を入れております。

     オシャレをもっと楽しみたい!一生ものの本格Vintageを手に入れたい!価値ある逸品を手に入れたい!を叶えます♫

    トレンドに振り回されず、一点物のVintageであなたを表現してみませんか?

    皆様のご利用を心よりお待ちしております。

     選び抜いた個性的なアイテムを通じて、お客様にに新しいスタイルと価値を提供したいと考えています。

    現代のサステナブルな価値観と調和させた商品を取り揃えています。過去の名作が持つ魅力を再発見し、それを未来へと繋げる場として、私たちのショップをご利用くださいませ。

    →サステナブルファッションへの取組み(Gucci、CHANEL))

    大人の為のVintageファッション

     今、ユニクロなどファーストファッションを上手に取り入れたファッションが主流なので、楽をしたい時に私も取り入れていますが・・

    私達の年代って、安っぽくは見られたくないじゃないですか・・

     お気に入りのブランドをさりげなく、上手に取り入れるのが大人のセンス。

     シンプルな中にも1点豪華主義って、カッコいいですよね☆

     しかも・・今、お店で売っていない Vintageという廃盤品なら、友達と被る事もありませんね。

    オールドグッチの選び方<動画でも学べる!3つのチェックポイント>

    そして・・オールドグッチやオールドシャネルを持って、Gucci,Chanelに行くと、、、店員さんに絶賛されるんですよ☆(店員さんも こんなステキなバッグは見た事がない、、とよく言われます)

     これからの大人の女性は、是非、1つ1つお宝を手にいれていって大切にされてください。

     自分への頑張ったご褒美に自分でプレゼントしちゃいましょう~☆

    そして・・娘の代まで 受け継ぎましょうニコニコ 

    娘⇩

    プロフィール&20代の私が考えるVintage

    トレンドもどこまで取り入れたらいいのか・・?

    悩みは尽きません。

    ですが、ここはVintage! 一点豪華主義がオシャレで品のある女性になれるんです 

    ファッションの流行は、繰り返されていて何が今の流行か解らない時代ですが、、

    飽きのこない一生ものをこれからは手に入れて大事にしませんか?

     選ぶセンスと組み合わせで勝負するのが、Vintage!

    ファストファッションでも、質感や季節感にこだわってコーディネートをして、

    バッグやアクセサリーなどに、ハイブランドのVintage Bagを使うのが、現代風。

    世界で認められている、Gucci,CHANEL,HERMES,CELINEなど、当店で取り扱っているブランドなら間違い無し!

     何を買ったらいいか、何が自分に似合うか解らない方は遠慮なく、Rococoまでご相談ください。

     遠くてRococoまでご来店が出来ない方でも、遠慮なくご相談くださいませ。

     そして、1人でも多くのお客様に、Vintageの魅力をお伝えして今まで以上の輝くお洒落を体験して頂けたら幸いです。

    ▶️owner Yumiヒストリー

    古着屋経営はミラクルの連続

    伝説の下北アパートメントストア

    [ぽに〜て〜る]という雑誌を作っていた時に出会った、友達から紹介された、下北アパートメントストア。

    そこは、下北沢駅の西口から3分程。

    (2020年頃取り壊し)

     鎌倉通りという小洒落た通りに面しているのは、2メートル弱の道路だけ。その路地を5メートル程入った所にあるので、

    その建物は通りからも駅からも

    ほぼ、、な〜んにも、、み、見えない@@

    でも!看板は、、見える!

    築50年は経つ古すぎるアパートを6~7件ほどの店舗に無理に造り替えて貸していた。

    大家さんは親から相続したけれど、建築基準法で接道が2メートル以下の道路の場合は再建築が出来ないので、苦肉の策で店舗の形にして貸し出していた。

     ただ、隣の敷地の大家さん(アンナミラーズとジーンズメイト)からほんの数10cmの土地を分けて貰えれば再建築が可能なので、交渉中。

    だから、契約の時には半年契約とさせて貰う、という条件を最初から言われていた。

     しかも、公証役場まで行き証書を交わすと厳しく言われる。

    条件だけ聞くと、今考えても、最悪だ。

    「下北沢西口3分と言っても奥まった道路の奥。建物は古く、50年は経過しているボロボロアパートを改装した7件ほどの集合店舗の2階の一部」

    「半年契約でその後、絶対に出ていってもらう。その契約書は公正証書を作りサインを貰う」

    「その代わり、前家賃1ヶ月の15万だけで良い。保証金も敷金も何も要らない」

    最後の条件以外は最悪↘︎

    初めて下北沢という街に行き、場所を見てみたら、前に借りていたオーナーがDCブランドの古着屋をやっていたせいか、そんなに内装にお金をかけなくても使えそうだった。

    でも、なにせ、木造アパートを改装したので、6畳の部屋が縦に並んでいて木造の柱は抜けず、そのまま、剥き出しの柱があちこちに立っている状態。 トイレは建物に一つだけの男女共有の和式。

     試着室も隣のRockな店と共有。

     その店長は、いつも大きなヘッドホンをかけてロックを聴いている。店の内装で手伝ってくれる、約1年後に夫になる人と、Rockも年齢も背格好も似てるのに、、

     不機嫌な感じで愛想が全くないどころか、挨拶しても返さない。

       結局最後まで会話らしい会話もせず終わったけど、最後はうちの店長と恋仲になり、うちが退去した後うちを借りたというオチがついた。

    でも、会社勤めの時のパワハラ上司より私を虐めないだけマシだった。

     アパートメントストアを仕切ってる番長は、真下のレトロな雑貨を売る店。年齢も雰囲気も三浦和義ソックリでキツイ物言いをする愛人と経営している。フルハムロードとそっくりな店作りに、愛人ヨシミさんまで、そのキャラが似ている。

     他にも個性あふれるオーナーのオンパレード。ヒッピーもいれば、メキシカンもいるし、全員男性店長😓

     が!その中に、2人ほど、バイヤー仲間もいて、全く知らない人ばかりでなかったのが不幸中の幸いだった。

     それよりも、アメリカに何度か行ってる間に、自由人とは波長が合う事はわかった。

     同時にお呼びがかかった宝島での編集長=正社員への道。悩んだけれど、お茶汲み問題のアレルギーがあるので、自分で何かをやるしか道はなかった。

    →起業のきっかけ< 初代前レースクイーン?>

    悩みに悩んで占いにも行く

    古着屋を始めるにあたって、もちろん悩んだ。 どちらかといえば、今のままバイヤー業だけでも食べられたし、実は古着屋をやろうと思った事が一度も無かった。

     なぜなら「ぽに〜て〜る」で知り合った古着屋オーナーさん達は、売れなくて売れなくて、配本で店に行くたびに愚痴や相談を受けてばかりいたからだ。

     そして、私は立地とオーナーさんの個性などから、思いつく限りのアドバイスを偉そうにしていた。 私だったらこうする、というアイディアを丁寧に説明する。その中に「ぽに〜て〜る」への広告を出す事も提案するから広告も取れる。なにせ5000円程の広告。自分なら悩む事なく出す。そしてその広告作りも私がやってあげるのだ。安過ぎる。 けれども、広告5000円は出すけれど、他の私からのアドバイスは斬新過ぎるのか?何も行動しない。 だから、挙句、廃業する、というのをこの目で何件も見てきた。 そこに歯痒さを感じていた。

     何で私のアイディア通りに動かないのだろう?

    その私の斬新?かもしれないアイディアで古着屋をやってみようか?

    他人にアドバイスするなら、まずは自分がやれば良い。

    それでもまだ悩んだので、当たると評判の占いに行く事にした。

    全て話してタロット占いをしてもらったら、下北沢のある東南の方向はダメ!辞めなさい! と出てしまう。 私はその時、タロットを勉強して、自分で自分を占ってみた。 すると吉と出る。

     悩んだ挙句、もう失敗しても、経験だし、どうせ半年しか出来ないのだから、と、ダメ元で借りる事にした。15万に内装費ほどなら、貯金でなんとかなる。3〜50万しか貯金はなかったけれど。

    斬新な経営は年中無休から

    取り扱う古着は、当時私がフリーマーケットで売っていた古着、DCブランドやグッチなどのブランド。プラス、アメリカの古着。

    そして、私の斬新な経営アイディアを試してみる事にした。

    それは❣️  年中無休の店にする事。

    この時代は、コンビニもファミレスもまだ街に数店舗しか無かった時代。 店舗は休みは当然のように曜日を決めてあるし、臨時休業も当たり前。 だけど私は、お客様の立場になって何事もしたかった。

     だって折角行ったお店が休みだったら、次行きますか?

     そして年中無休を謳い文句にした。

    マリリン!を雇え

    そして、いきなり初めから人を雇う事!コレもオジサン店長には提案していた。

    愛想の悪いオジサンが店にいてもお客様は逃げるだけ。看板娘を雇って、経営者は影の仕事をした方が良い。

    そのアドバイスをすると、人件費がかかるからと、結局みんな行動しなかった。

    でも、私はすぐに実戦する。

    年中無休で経営するのだから私1人じゃ無理だし。

    募集ポスターを通りから1番目立つ看板に貼った。

    看板はマリリンモンロー。その隣に

    アルバイト募集‼️ 時給500円(当時の相場)

    店名は、You -Me

    そしたら、すぐにマリリンモンローの娘みたいな20才の可愛い女の子が来てくれた!当時の私は23頃だから、ほぼ同年代。

    私なんかより魅力があるし、お客様へのあたりも良い。 何せ、私は、ファッション業界で働いた事もないし、洋服屋で働いた事もない。 でもモンローちゃんは、ブランド店で働いた経験があった。 早速モンローちゃんに店を任せる。 私は経営者として、一歩引いた所から店造りをしたかった。 いつでもお客様の立場に立って、店造りをしたかった。

    私の仕事は・・

    1お客様に喜んで買って貰うための店の動線やコーディネート。内装もペンキ塗りもトンカチ🔨も何でもやった。

    2車が無いと効率が悪すぎるバイヤー業なので、この部分だけは私でないと出来ない。

    3店を宣伝する広告。チラシを駅で配ったりもした。暇な時間があって愚痴をこぼすなら、バイトを雇って、自分がチラシを配ればいい。

    4「ぽに〜て〜る」の経営を反面教師にした。とにかく、経営者は数字に弱いと先がない。ソロバン、暗算2級ほどは持っていて、なぜか数字だけは強かった私は経理はきちんとした。

      みんなやりたくない裏仕事は私がやる。でも表舞台に立って販売する子は、私なんかより可愛いくて人懐っこい子の方が良い。 人を雇って役を分ける。それが、私がした経営手法だった。

    効果はすぐに現れる

     その経営手法は、すぐに効果が現れた。

     モンローちゃんのセンスも素直に取り入れて店作りをした結果、3ヶ月頃から確実に利益が出るようになった。

     DCブランドの古着だけではなく、アメリカから輸入した50s〜70sのツイッギースタイル、サイケデリックや50sのスタイルも評判になる。

    個性的な服ほど高く売れる。世はバンドブーム(イカ天が始まる少し前)バンド系の子達が、個性を求めて遠方からも来てくれた。まだ高校生の千秋ちゃんや久本雅美さんも接客して売ったのを覚えている。

    古着屋はライブハウスとなる

    とにかく、モンローちゃんが個性的でセンス抜群の子なので、彼女の意見もどんどん取り入れる。店で流す音楽は、モンローちゃんが大好きな リンダリンダ〜🎵の「THE BLUE HEARTS」スカなど。

      売れ始めたけれど、モンローちゃんは遅刻欠席が多すぎるので、もう1人雇う事に。(遅刻で先生に褒められた私はキツく注意も出来ず💦)

     そして、次にバイトで来たのは、これまた個性あふれる草間彌生の孫娘のような娘だった。2人とも20代前半。 彼女が好きなのは、「RCサクセーション」忌野清志郎だ。 私が好きなのは清志郎の恩師の「井上陽水」だけど、どうしても、陽水の曲は場違いだった(苦笑

       そして、私がいない時に、そのRockな音楽をボリューム上げて、、、ついには踊ってしまうのだ😰「屋根裏」という今では伝説のライブハウスにも通ってた彼女達は、ライブハウスの友達も大勢集まってきて、店は、どうやらライブハウス状態になってしまったようだ。

     50年も経つボロアパートの構造だから、下のお店には煩かったに違いない。 真下の店舗の三浦和義(似)の愛人が音が煩い!と怒鳴り込んで、クレームが入る。 いつも私がいない時にそれは起きて、申し訳なさそうにモンローちゃん達が私に報告する。

     喧嘩しても仕方がないし、うちが悪い訳だし、、。 会社勤めのパワハラ上司とお局様の経験値があったので、その都度、平謝りしながら上手くかわした。 何せ、半年の契約だ。パワハラ上司のように、期限なく、私が泣くまでいびられる訳じゃないし。何より理由あっての事。あと数ヶ月で絶対にさよならだし。

     けれどもモンローちゃんと草間弥生ちゃんに注意しても、ライブハウス事件は忘れた頃に必ず起きた笑 

     そして愛人が怒鳴り込みにきて、私が後から謝りに行くという魔のループ。

    半年契約のはずが・・

     約束の半年が近づいた。良い経験になったし、利益も出たから撤退しようと、大家さんに挨拶をしたら・・・

    「え?半年契約?? そんな事、言いましたっけ??」

    え〜〜〜〜??😱😱言ってないですって?? 

    公正証書も交わしたよね⁉️

    すると、大家さんが笑いながら、経緯を語る。

    「実はですね。お宅の前にDCブランドの古着屋が入っていたでしょう?その男性オーナーが周りと喧嘩してばかりでね・・・出ていってくれ!! とみんなで、そう言ったら、契約違反だ!弁護士呼ぶ!とかなってですね・・・それで、次に入る人は、ちゃんと周りと上手くやっていける人じゃないと、と思ってですね、貴方の様子を観察するために半年契約としたんですよ。上手くやってるようじゃないですか!ぜひ、やってくださいよ。」

    え〜〜〜😱✖️100回😰

     私はみんなに観察されてたの??

     パワハラ上司もお局様も、ここで役に立ってしまった。。 まさかのミラクルであった。

    結局、大繁盛

    「ぽに〜て〜る」のように赤字じゃないから、続けられる。

    そこで、たった、6畳2間の狭い店に、カウンターレジを奥にも置いた。

    そうしないと、万引きは毎日のように起こる。

    私の仕事のうちの1つに万引き犯を捕まえて警察に連れて行く、という仕事も増えた。

     同年代の女の子を捕まえてパトカーに一緒に乗って行くのだけど、自分も犯人?という絵柄だった。

    それでもレジは足りなくて、買取用のカウンターも外のテラスに置いた。

    すぐに年末がきた。昭和天皇が崩御、私は結婚する事になり、何事も1番が好きな私は平成の第1号として結婚届を出そう!と狙っていた。(結局、役所は元旦は休みだったので7日に届を出した)

    年中無休を謳い文句にしてたから、私1人でも営業するつもりでいた。すると、女の子達は働きたい!と言う。

     当時の下北沢の街は店舗はどこも閉まっていて、いつもより穏やかでシーンとしていた。

     正月は基本どこも店は開けないし、なにせ昭和天皇が崩御されたので自粛だ。

    それなのに、、お客様がこれでもか、という程入って来る😱

    あまりの混雑で、身動き取れなくなり危険を感じた私は初めて入り口で制限をかける。1人出ると1人入場!みたいな。

    あまりにも人が来るので、外を覗いたら、行列が出来ている!

    螺旋階段に並び、道路まで続いているようで、驚いた。

    ここから、私の仕事は交通整理も増える。

    結果、初めての正月は100万の売上をあげた。

    その正月で弾みを付けて、ますますお客様が増えるので、バイトは女の子をもう1人雇って、3人体制にした。

    メインのレジと奥のレジと外のテラスに買取用カウンター。

    買取をして、すぐに売れる。まさに右から左。

     私の経営アイディアは大当たり。自分の占いも当たったし、何よりも勘で仕入れた洋服が右から左に、どんどん売れて雑誌にも出るしで人気店となる。

     2件目も出店。

    下北沢の1番栄えている南口。 パチンコ屋の裏の景品交換所だった所が空いていた。ボイラー室なので、狭くて縦に長すぎる。 でも、ココも半年契約だという。その代わり安い。 また、ミラクルが起きないかと、ブロンドザウルスという何故か恐竜の店名で借りてみたけどやはり半年契約で終わり、バイトちゃん1人だけに任せたせいか、売上もイマイチで終わる。

    人生で初めて媚びた日

    学生時代も先生にも誰にも媚びる事をせず卒業。

    会社員時代も渋々お茶出しはしたけど媚びた事はしなかったし、出来なかった。

    そんな私に、遂に媚びないと先が無い!という時がきた。

    私がアパートメントストアにいられると決まったら、階下のアパートメントストアを牛耳ってるボスの三浦和義(似)から提案してきた、アパートメントストアみんなでの飲み会。

     なぜボスなのかというと、ボスが大家さんを説得して、アパートメントストアを作る提案をしたからだった。

     居られる事になった私が断る訳にもいかず、モンローちゃんと草間彌生ちゃんを連れて行く事に。

     そこで、どう見ても、ボスにお酌をしないといけない場面が訪れた。みんなボスにお酌してお礼を言ってる。

     ザルなスタッフ2人が飲めない私に指示する。

    ゆみさん!今ですよ!お酌しないと!

    わかってる。みんなお酌している。

     でも、彼女達がしでかした音の問題と、うちだけ客が並んで迷惑をかけてるので、ボスは内心私に怒っているのは、みんなにも明白。

     だから、私がどう出るのか?

    大注目を受けているのも分かってる。

      思えば、飲めない私は(運転をする関係と下戸なので)ビール瓶を持ってお酌するなど、、

    初めてだった😓😓

     飲みの席はいくらでもあるけれど、みんな自分の分は自分で注ぐし、私にお酌を求められた事は無かったし。

     でも、遅いけどみんなと同じく私もボスにお酌して、

    お世話になっております。これからもどうぞ宜しくお願いします

    と頭を下げるのだ!わかってる。

     こういうのをきっと媚びるというのだ。

     でも今こそ、初めて媚びる時。これからアパートメントストアの仲間として入れて貰うのだ。

    それに、ライブハウス怒鳴り込み事件で隣に座るボスの愛人にも頭を下げなければいけない。

     でも!

    ゆみさん!今ですよ!お酌しないと!

    と、隣で袖を引っ張るモンローちゃんと彌生ちゃん。

    でも、よくよく考えると、元々君達のせいで、さらに下手に回る立場になったのではないか⁉️

     それでも、オーナーの仕事の1つと心得た私は勇気を振り絞って、立ち上がって、慣れない手でビール瓶を持って、、ボスの前に行き、、震える手でビール瓶を傾けて、

    これから、、よろ、、

    と言ったかどうかで、、

    ビール瓶は手から滑り落ち、、

    ガチャーン❣️

    と、見事にボスの目の前の御膳をメチャクチャにして、そしてボスと隣の愛人の衣服も汚れた。

    みんなの時間は止まった。

    見よう見まねでした初めてのお酌だった。

    その後の事は記憶にない。

     結局、私はお茶汲みも苦手だったように、お酌も苦手

     

    自分がお洒落するくらいなら、お客様に喜んでもらいたい!けれど相変わらず車だけはこだわって、乗り換えていたけど。赤いポルシェに乗る夢は密かに持っていて、少しづつバージョンアップしていた。 そして、遂に7年後、購入できる事になり、ポルシェを試乗したら、、、あまりの出だしの速さに驚いて、赤いベンツになった。。

    結婚して大型店舗を出店する

    平成になった1月初日。経営に協力してくれた4つ上のRockなアメカジの人と結婚。もちろんハネムーンは何度目かのロスに買い付け。

    実は1度目の初バイヤーの直後に、付き合ってた今の夫と、その友達の男が、ロスに連れて行って欲しい!と懇願されて、3人旅をした事がある。 2人ともアメリカで運転が出来ず、私が運転して全て案内した。 その時の夫の友達が、今でも現在な渋谷の有名店。 ヌードトランプの社長。

     夫とは、今までのアメリカでのバイヤーの経験を通じて、vintageの持つ魅力を多くの人と共有したいという強い思いが生まれる。そして、夫はサラリーマン勤めを辞めて一緒に、高円寺にアメカジの古着屋を出す事に。 ロック、ロカビリー、アメカジをテーマにした、リーバイスなど、50sなお店。

     そのお店は、自分達で内装をした。そして初日から何故か行列が出来る店舗に!

     

    アパートメントストアが嫌になる

    嫌になった理由のトップから。

    1、スタッフの管理が大変になり、イザコザもしょっちゅう。遂には、集団で辞められた。2才程しか変わらない私とバイトちゃん達。良かれと思ってした事がアダになる

    2、アパートメントストアという共同体に嫌気がさした。なにせ、みんなに合わせなければいけない。電気工事をするにも、7人の意見が合わないから工事も出来ず、プレーカーが夕方になると落ちてしまう。暗いと万引きも増える。

    3.家賃が毎年値上がりして、ついには3年後には倍の30万近くを提示された。  

    下北沢や高円寺にさまざまなテーマを持つ古着を中心とするヴィンテージショップを次々と運営することにしました。1988年頃からでした。当時、内装にも人にもお金をかけ、力を入れた大きな古着屋としては初めての試みでした。 一番多い時は、スタッフ10名、店舗4店舗。 同時に、アメリカの洒落た古着屋との出会いも私にとって大きな転機となりました。ニューヨークやロサンゼルスの街角で見つけた小さな古着屋は、まるで宝探しをするかのような興奮を与えてくれました。そこには、時代を超えて愛されるヴィンテージアイテムが並んでおり、一つ一つに独自のストーリーがあることに気づかされました。特に、70年代や80年代のアイテムには、その時代特有のエネルギーとスタイルが宿っており、ただの服ではなく、時代を超えるアート作品のように感じました。 これらの経験を通じて、私はヴィンテージアイテムの持つ力に魅了され、自分自身もその魅力を他の人々と共有したいと強く思うようになりました。そして、自分の手で選び抜いたアイテムを通じて、顧客に新たなスタイルを提供し、同時にそのアイテムが持つ歴史や物語を伝えたいという熱意が生まれました。ビンテージショップを開くことで、ただのファッションとしてではなく、文化や歴史、そして個々のライフスタイルに寄り添った提案をしていきたいと考えています。 ビンテージショップを通じて、人々が新しい価値観やスタイルを発見し、自分自身を表現するための手助けをしたい。その思いが、私がビンテージショップを開く原動力となっています。

    「ぽに〜て〜る」と華やかな誤算

    日本で初めての、売ります買います情報誌「ぽに〜て〜る」という雑誌に関わった。

    ヤフオクもメルカリも無かった、1983年頃の事。

     本屋か古着屋で見つけた「ぽに〜て〜る」

     フリーマーケット情報も掲載されていたので、200円で買ってみたけど、その雑誌は雑誌ともいえない不完全さだった。
     誤字脱字だらけ。変集長と書いてあったり、売ります情報に人間があったりゴリラが載ってたり🤣

    「ぽに〜て〜る」と高円寺との出逢い

     とにかく笑えるオンパレード奇妙すぎる情報誌で、オカルト雑誌「ムー」や星新一SF小説好きだった私は、バイト募集に引っかかり、高円寺という行った事もない未知な街に面接に行く事になった。

     面接に行ったら、小さな木造のアパートの一室で、自宅兼事務所は汚過ぎた。

     出迎えた社長は30才程のバンドマン(世はバンドブームに入る少し前)で、散らかってる部屋で会った時から最後まで何か探し物をしていた。探し物を探している途中で、また探し物が増えるというループ状態に陥っていた

     唯一の社員?であった奥さんは、双子を産んで1人が死産で入院中で大変な時だと聞かされた。

     車を持ってる私はその汚い部屋から脱出したい一心で本屋の配本に志願すると、重宝された。会社員時代とパターンが同じ。

     ただ、嫌味を言われるばかりの会社員時代とは正反対で、何をやっても感謝された。

    ▶️起業のきっかけ<初代前レースクイーン?>

     ついでにと、売り上げを回収したら、ついでに、、がどんどん増えていった。

    遂に古着屋の取材をしたり、挙句に広告も取ってきた。

     広告といっても、割と大きい枠が5000円ほどと破格値。通称10万部発行!と書いてはあったけど、実際には千冊程だった事は後ほど知る。

     暫くすると、事務所兼自宅に奥さんと赤ちゃんが帰って来て、奥さんが版下作りをしてる間に、赤ちゃんの子守もして、ついでにと、編集の仕事や版下作りをしたり。

     当時はパソコンも無かったので、一文字一文字を探して打つ写植の時代。
     車で写植屋まで行ったり、締切ギリギリを争うので、そこでも私の車は役に立つ。

     だから誤字脱字も当たり前なのだ、と、関わって初めて知る。

     だけど、お金はいつも火の車で、実際、お金が無いからミルクも買えない、とこぼしていた。

     そんな中でも明るく、優雅に友達を呼び、その友達は必ず酒とツマミを持ってくるから、仕事はいつもはかどらない。ミルク代も友達に借りていた。

     けれどもみんなで飲みながら楽しく制作していた。

    人生はジェットコースター

     社長は吉祥寺の曼荼羅という今でも伝説を誇るライブハウスで、定期的にバンドのボーカルをやっていて、そのファンの男性もよく飲みに来ていた。

     その男性は「Mr.バイク」の編集者で、バイク大好きだった私は、ネタがなくてページが埋まらないからと泣き言を言われ・・・

     まんまと乗せられて、2ページにも渡って私が掲載される。タイトルは「人生はギャンブルだ!」か、「人生はジェットコースター」だったと思う。見開きで、顔写真アップとインタビュー記事。

     そこで何を語っているのかも今更、怖いもの見たさで見てみたいけど、確かに、私の人生はず〜っと山あり谷アリ、行き当たりバッタリ。ジェットコースターのようで、それでも、有難い事に、人や運には恵まれた方かな、と思う。

    お金よりも、、

     「ぽに〜て〜る」の社長は、バンドでは生活できないから、雑誌を作る事にしたけれど、雑誌も大赤字になっていた。

     鶏(バンド)が先か?卵「ぽに〜て〜る」が先か?問題でよくみんなで討論した。

     TBSがその話を聞きつけ、ドラマ化したいと取材を受け、脚本を書いてる最中だった。
     ベンチャー起業という言葉が世に出始めた頃で、若者が起業する姿を描きたかったらしい。

     社長は、100万はある借金や、未払いの私の給料をドラマ化される事で、返せる❣️と希望を明るく語る。

     テレビでドラマ化されても、モデル料も何も出ないと知っても、「ぽに〜て〜る」の雑誌は宣伝してくれるというので、きっと売れるようになる❣️そしたら、未払いの給料を支払える❣️と豪語した。

     けれども、私はその時、未払いのままになるのは覚悟していた。

     なにせ、国民金融公庫からの100万円の借入だけでなく、沢山の友人からの借金も抱えていて借金取りも毎日のように来ていた。当然のように家賃も滞納が当たり前。

     私への支払いが先に、なんてあり得ない。
     それよりも、雑誌を通して次々に出来る友達や人脈が大きく広がっていた。

    その中に、2年後に結婚する人もいたし。
     何よりも、最初のお店を紹介してくれた今でもお付き合いのある友達もいた。

     古着屋店主はみんな横の繋がりを求めていたし、売上アップの方法に悩んでいた。「ぽに〜て〜る」は、一つの横の繋がりの唯一無二の雑誌だった。インターネットもパソコンも何も無い時代である。

     私は生意気にも店主に相談されれば売上アップの方法を一緒に本気で考えてアドバイスもしていた。それがその後の古着屋経営で生かされるとは思わなかった。

     また、その中に五千円の広告取りを織り交ぜたので、難なく広告が取れた。

    フリーマーケット主催

    ある時、キリンビールから直々にフリーマーケット開催主催の案件もきた。

    新宿に高島屋が、建築される直前の広い空き地で、キリンビールが夏の期間だけビアガーデンのドームを立てて夏だけ開催するという企画。

    その横の空き地でフリーマーケットをしたいという、その主催を依頼された。100万円出すと言う。周りの友人からだけではなく、借金取りに追われていた社長はその話にすぐに飛びついて契約をした。
     だけど、雑誌作りとバンドでそんな時間も無い。
     それよりも、要領悪すぎる社長はいつも探し物と、友達を呼んでの飲み会で忙しかった。
     私と奥さんが説教しても、笑って誤魔化される。

    だから、フリーマーケット主催の矛先は、やはり私に矢が当たる。
     逆に言えば私しかいなかった。
    仲良くなった奥さんには生まれたばかりの赤ちゃんがいる。

     その時の私は、バイヤー業をやり、代々木のフリーマーケットに出店していたり、広告取りの関係の人脈があり、出店したい仲間は大勢いた。

    あっという間に10人程、集めた。
     その中に1年後に結婚した夫もいた。
     アメリカでのバイヤー仲間もいた。

    炎天下の中、出店料無料で3日程開催したが、明治通りから奥まった場所だったからか、買う人は集まらず💦

    私は懸命にチラシ配りをした記憶がある。
    キリンビールとしては、フリーマーケットを100万で私達に丸投げ状態なので、売れようが売れないだろうか、どうでも良い。ビアホールがメインなのだから。

    華やかな誤算 

    翌年、TBSでドラマ化されたタイトルは

    華やかな誤算 

     サラリーマンが意を気してベンチャー起業をしたものの結局、倒産してしまうドラマ。
     今では、脱サラとか、ベンチャーとか、フリーランスの人は珍しくないが、若者が起業する、というのは珍しい時代であった。

    *ホリエモン曰く、1997年の自分が卒業(中退)した年、東大生でも起業したのは自分を入れて3人だけという時代。その10年以上前の話。

     制作途中でシナリオ作者が病気のため変わったという経緯もあり、「ぽに〜て〜る」同様、波瀾万丈なドラマになった。
    挙句、翌年自殺した古尾谷雅人主演。

     そして、、私の役をやったのは、、あの、、

    戸川純😱😱

    <役所>パフォーマーとして特異な才能を持ち、ミュージシャンを目指して上京して来たが挫折、全子の店で働くうちに再び音楽活動に本気で取り組むようになる。

    検索したら動画が出て来た!しかも1話の一番初めと、その3分後。

     戸川純がフリーマーケットで着物を着て踊り狂い雑誌「ぽに〜て〜る」を宣伝して売る役所!

    (当時の私は見ていない)

     絶対に私は戸川純のキャラじゃないのに、製作者の目にはそう映ったらしい😓

    *ドラマは、ヒットする事もなく、その前に「ぽに〜て〜る」は倒産していた笑

    まさしく「華やかな誤算」だった

    そして、ぽに〜て〜るは倒産した

    キリンビールから受け取った100万など、あっという間に、友達への借金返済で無くなって、私は1円も受け取らなかった。
     それほど周りにお金を借りていて縁を切られていた、ちょっと可哀想な社長であった。

    じゃあ、私が何で生活していたかといえば、、
    バイヤー業とフリーマーケットと、そして、広告にお金を出してくれるスポンサーのアルバイトだった。
     ダイヤモンドを売る仕事に奥さんと行ったり、今も残る、オイシックスという有機栽培にこだわる 初期の会社に働きに行ったり。

     お願いされて行くので短期の割に時給は良かった。
     
    けれども、ついに国民金融公庫に返済出来なくなったのだ。

    宝島社が、ぽに〜て〜るを??

    「ぽに〜て〜る」は、私が入った一年後に倒産した。

     なんとなく予想はしていたので、ビックリはしない。

     社長は50万ほどの給料が未払いという事を今でも気にしているけど、「ぽに〜て〜る」での人脈がなかったらバイヤーも古着屋も経営していなかったから。

     なにせ、年中、借金取りが押し寄せてきていて、その度に居留守を使ったり、笑って誤魔化したり、挙句、雑誌のネタにもしていた明る過ぎる社長夫婦であった。

    いよいよ倒産となった時、、

    なんと❣️当時、若者に人気の、オタク、サブカル雑誌「宝島社」が、「ぽに〜て〜る」を買ってくれるという夢のような有難い申し出があった。
     こんなに面白い雑誌をなくすのは勿体ない、と。

    *宝島は、宝島社から発行されていた看板雑誌。 1973年7月10日に晶文社より『WonderLand』として創刊。1970年代のサブカル文化の一翼を担った。休刊に至るまでに何度もの雑誌自体のコンセプトの変更を経た。刊行期間: 1973年7月10日 – 2015年8月25日

     買ってくれる、といっても最後に無償だと言われる。けれど、自分たちは借金を負って倒産するけれど、名前だけでも残せるなら!という社長夫婦の願いでもあった。

    ちなみに、現在、この社長夫婦は、荒波を乗り越えて、ハンバーガーショップを経営している。

    BURGERS N.Y 

    社長と当時、子守をしたみほちゃん

    私が宝島に??

    倒産が決まってしばらくして、社長夫婦から、提案された。

    私が宝島に行き、「ぽに〜て〜る」の編集長となる事を。
    社長夫婦は倒産(破産)したので、宝島に行けないのだ。

    なので矢は私にしか当たらない。
    宝島からの要望である。
    編集者ではない、編集長だ。しかも正社員だという

    今でいうとM&A。起業合併?いや吸収?

     断っても構わないとも社長に言われたけれど、宝島からも直々に面接されてお願いもされた。確かに「ぽに〜て〜る」を宝島で出版するのに、今までの関係者が1人もいないというのは、絵にならない。

     最初から編集長として、まずまずの給料も提示された。最初は少ないかもしれないけど部下もつける、とも言われた。

    だけども、、私があの宝島に⁉️
    まさかの、、またもやの棚ぼた事件だ。
    ホンダサーキットチームに入ってレースクイーンをした、棚ぼた事件を思い出す。

    書くのは、この通り嫌いじゃない。
    幼少期の夢は小説家だった。

    悩んだ。私に編集長など務まるものだろうか?
    考えた事もなかったし。
    小説家と編集長は似てるようで似てない気がする

    古着屋経営のオファー

    そんなある時、「ぽに〜て〜る」の仕事を通して仲良くなった友達から、下北沢で古着屋をやらないか?という話がきた。彼女は渋谷で古着屋を持つ唯一、同年代同性の今でも交友のある友達。

     でも条件だけ比較すると、今考えても最悪

    「場所は下北沢西口3分と言っても 道路から奥まった位置にあり、看板しか見えない建物のさらに2階。」

    「建物は、木造の50年は経過しているボロボロアパート。それを上手く改装して7件の店舗を入れているけど狭すぎる。トイレも共同で和式、とにかく全てが古い」

    「見に行くと個性的過ぎる男性ばかりの店主で、嫌味を言う人もいたし、隣の店主のRockな男性店主は、ヘッドホンで音楽ばかり聞いていて、挨拶をしても返さない(最後まで)」

    大家さんと面接をすれば、

    「半年契約でその後、絶対に出ていってもらう。その契約書は公正証書を作りサインを貰う」

    「代わりに保証金等一切ない、前家賃15万円のみで良い」

    今考えても、最後の条件以外は、リスクありすぎ!!

    どう考えても、正社員の宝島の方が条件が良いはずなのに、、、

    まさかの古着屋経営を選んでしまう。

    *でも、宝島社は2015年に倒産してしまうので、私の選択は正しかった

    *owner Yumiヒストリー

    <そして私はバイヤーになった!?>

    20才の頃、自分に全く合わない会社員生活を1年で辞めて

    ▶️起業のきっかけ<初代前レースクイーン?>

    他にも理由があり、実家を離れて一人暮らしをしていた。


     そしてたまに、バイトしていたイギリスアンティークカフェ「カフェ・ル・モンド」

    ▶️企業のきっかけ<AntiqueとVintageとの出会い>

    のマスターから教えて貰った代々木のフリーマーケットに出店しながら「ぽに〜て〜る」という奇妙な売ります書います情報誌を作るバイトをしていた

    ▶️起業のきっかけ<ぽに〜て〜ると華やかな誤算?>

    それはロス疑惑から始まった

     何か起業しよう!というよりも、アンティークが手に入るヨーロッパに行きたい!と、ぼんやりとTVを見ていたら、ロス疑惑の三浦和義事件を報道していた。その頃は、毎日がロス疑惑報道だった。
     丁度、三浦和義が経営する代官山のアンティークショップ、フルハムロードが映し出されていた。
     小洒落た古いけれど魅力的な海外の古着やレトロなグッズが所狭しと並んでいた。

     グッチやディオール柄も見えた。

    そこで、私のミラクルが発動した。
     三浦和義は、ロスアンゼルスのフリーマーケットなどで買い付けしている最中に奥さんを銃で撃ち殺して自分の足も自分で撃って保険金詐欺をしようとした、と報道している。
    、、と、いう事は、ロスのフリーマーケットに行けばこの素敵な品物が手に入るのね?
     この素敵な物はこれから売れる!と確信する。

     その前に自分だけのコレクションにしたい❣️

     なにせ、カフェルモンドのマスターのようにヨーロッパに本当は今すぐ行きたいけれど円高すぎて周りの友達は誰も行けてない。

     その頃、ドルが安くなってきて、アメリカに注目が集まっていた頃。

     そこで、私は情報を得ようと本屋に行った。今と違ってネットもスマホも無い時代。
     当時は、海外旅行のガイドブックでは、「地球の歩き方」しか無かった。
     早速、厚くて重いロスアンゼルス編を買って隅々までフリーマーケットを探したら、小さい情報として、ローズボールと住所が出てきた。

    ロスのミラクルな1人旅

    そこで高校の友達を誘ってロスに行こうと、ツアーに入らずロス行きの往復チケットを買って行く事に。

     自由過ぎる高校のため、トレンドを追いかける仲間の同級生達は、すでに東京に飽きて海外に目を向けていた。

     海外に行けば、グッチなどハイブランド品が免税店で買える!と。

     でも憧れのヨーロッパもアメリカも高過ぎてなかなか行けない。

     カフェ・ル・モンドのマスターは総額千万かけて、イギリスで沢山antiqueを買って来てお店を開いたけれど、奥さんの実家が全額出したものだから、今だに奥さんの実家と揉めてるし。

     しかも飛行機で8時間以上かかる。

     そんな中、円高になってきたから思い切って行こうとしたのに・・・出発の1週間前に、友達は親の不幸があり行けない事になった!

     悩みに悩んだ末に、キャンセル料を払う位なら!と、1人でも行く事にした。

    海外旅行の経験は、友達との香港、台湾位だった。

     スピード好きな私はやっぱり飛行機に乗りたくて(笑 飛行機に乗るだけのために高校1年で友達と北海道旅行も行ってる。

    でも、アメリカのロスは東南アジアとは違い、車文化らしい。しかも初めての1人旅。。 

    今でも無謀な話だと思うけど、それでも1人でロスに行く。

     ミラクルな事に、空港からカタコトの英語が通じてしまったため、レンタカーを借りて、そのまま目の前の高速道路に乗り、片手に地図を持って見ながら、、

    なんと!迷わずフリーマーケット、ローズボール(現在では1番有名)」に奇跡的に着いた❣️

     オールドグッチを始め掘り出し物を車に大量購入。仕入れ先を確保。1週間滞在の予定が延長して1ヶ月滞在。カリフォルニア州を周り、日本にはまだ無かった大箱のオシャレな古着屋巡りと、買付け三昧の楽しい日々を送る。

    ミラクルな走り!

    しかも、日本と違って、左運転ではなく右運転。
     右車線だし、何もかも日本と反対で違う交通ルール。

    車優先社会だから、人なんか道に歩いていないから道も聞けない。

     空港に行くバスも1日1本な程。(帰りに試してみた)
     全ての道路が広すぎて、そして交差点に信号なんかない。
     交差点は規則通りに左から抜けるパターン

     人間よりも車優先社会。(私にはピッタリ)

     ところが、何故かすぐ慣れてスイスイ運転出来た!(日本の道路や交通ルール程、複雑なものは無いと思う)

     カリフォルニアの青い空と広い道路は、私にピッタリとフィットした❣️笑

     国際免許も取って、ある程度、知識は持ってたけど、20才で単独で事故も起こさず、1ヶ月、運転した。まさに奇跡!というか、毎日車に乗って、首都高をグルグルしてた経験がそこで生かされた。

    *後程、夫を含む男性陣をローズボールに連れて行ったが、あまりに運転が下手で交差点を抜ける事が出来なかったため、運転は全て私が引き受ける。(今でも健在な古着屋ヌードトランプの社長も夫と一緒に連れて行った)

    ローズボールで、カタコトの英語が通じてしまったため、ピピッときた古着やアンティークを沢山買い込んだ。日本人などローズボールであまり見かけなかった時代。

    リトル東京との出逢い

    次に宿探し。これもカタコトの英語で何とかなった。というか、日本語が通じる宿を選んだ。
     その宿泊先は、リトル東京のドミトリーホテルと決めていた。
     ここに来れば日本人が多い事までは地球の歩き方で調べていた。
     しかも、アメリカでは、ハンバーガーかステーキしか外食が見つからないし、不味いし高いと聞いていたけど、リトル東京の中にあるヤオハンというスーパーに行けばご飯のテイクアウトが安く手に入る。しかも、朝食付きのドミトリーだ。(1人部屋)
     予約までしていなかったけれど、目星を付けてたホテルは予想通り空いていた。

     今思えば、当時こんな所に来る日本人女性はいないと思う。

    そこに住む?住人に色んな事を教えて貰う。

     そこは今でいう民泊や、ゲストハウスのようなもの。
     そこには何故か長期間住み続けている日本人が沢山いた。
     その理由は、、

     リトル東京の歴史を辿ると、アメリカの中の日本人村として移住して栄えた街なので、元々ここに住んでいた人の祖先。

     国内の有名大学に落ちたため、小さな語学学校なのに、海外の大学?に行ってる様に見せかけてる人(金持ちの唯一の同性)

     なんだか怪しい仕事をしてる人(売人?)

     ビザが切れたため日本に帰れない人(バイヤー仲間もこうなった人もいた)

     そんな感じの住人なので、私のアンティークを集める!という目標は、みんな興味津々で、沢山の協力を貰えた。

    フリーマーケット情報も、古着屋情報も。
    そして、現地で発行していた日本語新聞も置いてあり、そこに山ほどのガレージセール情報があった。

     家の前で売り買いするガレージセールはアメリカやヨーロッパではごく普通に行われている。

     ロスだけではなく、サンフランシスコ、サンタモニカなどカリフォルニア州の広大な道を毎日、車で走る日々。道路が広すぎて三車線はあるから100キロ出しても咎められない、私にとって天国だった。

     沢山の大型のオシャレな古着屋があって、50年代からの敗戦国日本には無かった贅沢なファッションがそこには沢山あった。

     50s フィフティズ ロカビリー〜

     60s ツイギー〜

     70s サイケデリック〜

     後々に開く大型店舗のヒントになる。

     日本で「ぽに〜て〜る」を通して知り合ったバイヤーの人とも偶然、フリーマーケットで会って、お世話になり、メキシコの国境では、移民、難民などで、ごった返しているので、アンティークが安く買い叩かれてると聞いては、そこまでみんなで車で行ったりと。

     とにかく、古き良き物、お宝の掘り出し物が沢山手に入る。

     お金が無くなれば、紹介された日本人経営の寿司屋でバイトしたりホームステイしたり。
     オマケだけど、ラスベガスのカジノに車で8時間もかけて遊びに行ったり。(スロットで10万円当てた仲間がいた)

     何よりバイヤーの繋がりも出来た。

     1週間滞在の予定が、楽し過ぎて延長して1ヶ月滞在となっていた。仲間の男の子は、楽し過ぎたらしく、ビザが切れてしまい永遠に日本に戻れなくなり、、現地バイヤーとなる人も出た、程💦

    まさかのバイヤーに。

    その後、アメリカで買い付けた品物を代々木のフリーマーケットで売ったら、なんと!1日で10万の売上❣️他にも「ぽに〜て〜る」で知り合った店のオーナーに売ったり。

    そこから海外を行き来するバイヤーとなる。

    2年後、ドルが240円前後だったのに、160円台に落ちた。その頃、古着屋開業をしていて、絶好の仕入れのタイミングを得る。

     ここからが古着バブルに入る。

    思い返すと、ロス疑惑事件から、まさかのバイヤーとなっていた。

    当時はバイヤーなんていう名称がなかったけれど、今でいうバイヤーになった。

    バイヤーになる事を強く望んだ訳ではない。成り行きだった。

    会社員は2度ど嫌だ!という思いと、運転が好きで、好きな事を追求しただけだった。

    まだ、下北沢にも高円寺にも、古着屋は数店舗という時代で、友達も含めて、古着に抵抗のある人達ばかりの時代背景だった。

    カリフォルニアにアンティークが集まる訳

    なぜカリフォルニア州に、ヨーロッパの良質なアンティークが集まっていて、それを狙ってバイヤーが来ているのか??

    そこには理由がある事を現地のバイヤーから教えて貰いました。

     それこそ100年そこそこの歴史の浅いアメリカという国は、イギリスを始めヨーロッパからの移民で成り立っている国です。

     ヨーロッパのお金持ちが、戦争などを乗り越えてアメリカに持ちこんだ価値の高い品々を、生きる為にお金にしようとします。だからフリーマーケットやガレージセールも、古着屋も増えたのです。古着や中古に抵抗があるのは日本だけかもしれません。

     けれどもニューヨークなど他の地域は湿気が多い為、カビなどでダメージを受けてしまうケースが多い中、カリフォルニア州はカラッとした陽気のため、生き残ってる高価な品やアンティーク品が多いのです。
     だから、カリフォルニア州には、物もバイヤーも集まって来ているのです。

    *歴史を振り返ると、日本も、江戸時代より前から質屋が街中に沢山存在していました。私の祖父の父親も東京で質屋をしていたそうです。空襲で焼けましたが。けれども戦後、高度成長期に入り、新しい物、トレンドに重きを起き質屋も減り、中古も見向きもされなくなりました。その後、古着屋ブームが又到来しましたが。

    →起業のきっかけ<ぽに〜て〜ると華やかな誤算?>
    ▶️owner Yumiヒストリー

     

    起業のきっかけ< 初代前レースクイーン>

    今、初代レースクイーン で検索すると、

    「1985年ごろ、日本で初のレースクィーン誕生!
    岡本夏樹、1989年、オートバイ全日本選手権に戦する『ホンダレーシングチーム』のレースクイーンとなり …」

    などが ヒットするけど、実は、私は、その数年前の1983年の夏のサーキット2輪レースで、ホンダのれーすくいーん?をしました。
     でも、ハイレグは着ていないですよ。コンサバの服で旗を振りました。
     それまでは男性が旗を振っていたのに、成り行きで19才だった私が旗を振ってしまっただけでなく。

     成り行きで、ホンダの2輪バイクのサーキットチームのメンバーに入ってしまったミラクルな話。

     そして、今振り返ると、その、れーすくいーんの経験が人生を変えた1つのきっかけでした。

    その時のライダーは、後に映画化された、草刈正雄主演、映画 汚れた英雄のモデルともされたイケメンライダー!!(モデルは数人いるとされる)

     さらに、その年代を調べてみたら、ホンダが2輪レースに参戦して力を入れ始めて、結果、ホンダという会社を大きくした年でした。

     確かに当時は、2輪バイクで速いと言えばカワサキで、速い車と言えばエンジンが優秀な三菱ギャランやMAZDA、RX7、日産フェアレディZなど。日産スカイラインの改造車とトヨタが金持ちのトレードマークという時代。
     ホンダは車でも小さなシビック位しかヒットはなく、更に言えば1番ヒットしてるのは、私も乗ってたタクトという女性に大人気のスクーターだけ。

     私が関わった1983年は、前年に伝説の二輪の鈴鹿耐久8時間レースで、日本人がペアで優勝するという偉業を成し遂げていて熱くなりかけていた時期だったようです。

    『1983年』がバイクレース好きにとって、伝説の1年なワケとは?

    タバコメーカーがスポンサーだったり、トップライダーのそばに美女がいたり……という、今の完全な健全さが求められるレース界より男臭く、まさに伝説の世界だった(カメラマンの撮影場所もコースに近いので写真も迫力がある)。インターネットの情報もなく、テレビ中継などもなく、数ヶ月遅れで伝わってくるバイク雑誌のモノクロのレースレポートだけが頼りだったのも渇望感があって良かったのかもしれない。

    そして、 ホンダレーシングチーム HRCという、熱いレース時代が発足しようとしていた、伝説の一年でした。

    自由過ぎた学生時代

     前年までの私は.都内の公立高校に通っていました。
     何事も自由な校風で、校則があっても無いような高校。制服があっても私服OK、髪を染めるのも化粧もバイトも遅刻も早退も、誰も咎める者はなし。

     中学時代も周りが荒れていたお陰で、ディスコに行って夜遊びしても、どんな格好をしていても普通の子として、お咎めなしでした。 

     お陰で、友達と最先端のファッションを心ゆくまで伸び伸びと楽しみました。

    →<70s~80sを経験したオーナーが見るVintage>

     高校に入ると早速、原チャリ免許を取って、当時一番オシャレなホンダタクト(50cc) で登校しました。オードリーヘップバーン主演の映画ローマの休日に出てくるミニバイク「ベスパ」に似ているからです。

     高度成長期は何事もスピード至上主義。ファッションもトレンドを追い求め、車の世界もスピードを競っていました。

     スピード好きな私は、高3ですぐに車の免許を取り、社会人になってすぐ車に乗り、ライダーを目指して大型バイクの免許を取りに行った程(笑

     当時の夢は百恵ちゃんの歌に出てくるのに、滅多に見ることが無い真っ赤なポルシェに乗る事。

     *結果、力が無く、アンティークな125ccスーパーカブと、真っ赤なベンツになった

     高校は、私服通学OKなので、欲しい服を買うためにバイトを掛け持ちでして、楽しい高校生活を送っていました。バイトの種類は卒業するまで、ゆうに10種類は超えました。(変わった職種では、巫子さん、エキストラなど)

     #卒業式の時に、担任に「君は全学年生徒(約3〜400人)中、1番最低の成績と最低の出席日数だったのに、ギリギリ卒業出来たよ、おめでとう🎉」と、初めて先生に褒められた!

     当然のように、大学など進学しようとは全く思わず。ましてや、先生から就職先を紹介して貰うなど考えも及ばず。

     父は父で、個人タクシーをしていたせいか車には寛大で。大学に行かないなら、そのお金で車を買ってあげるよ、と。

     私は4月生まれという事もあり、高3で車の免許は持っていて友達の車も運転していました。
     そして、前の家で不要になった、三菱ミラージュを父が50万で買い受け、高校卒業と同時に乗るように。

    社会人1年目はパワハラから

     そこで、行く当ても無かった私は、新聞広告で探した、車やバイクの部品メーカーの社員に面接に行って難なく合格。
     なにせ、かなーり辺鄙な埼玉にも近い場所。駅から遥か遠い。誰も応募しないだろう。私は私で、広い駐車場を見て、車で通って良いですか?と条件を出したほど。

    春から入社したものの、新入社員は私と山形の本社から来た大卒の男子だけ。

    他は、偉い人順から、、、

    社長夫婦、そのお付きの夫婦2名、開発研究職の社員2名、男性社員10名程、女性社員5名、新人男性社員1名、そして私という唯一の女性社員。次にパートの女性数名(年季の入ったお局様)最後は、中卒や夜間高校に通うなど、行く当てもなく彷徨っているバイクや車好きなバイトの男の子達5名程(急に入る部品の組み立てや力仕事で生かされる)

     ちなみに私の人生の中での会社員生活は、この1年だけ。希少な1年間となります。

     貰ったポジションは、営業部長の33才の独身男性の1人部下。

     最初に挨拶したら無視されて。嫌味ばかり言って仕事もくれないパワハラ上司。

    嫌味を言われると自由奔放で育った私は、言い返して戦ってしまうので、相性最悪。

    すぐ喧嘩になり、挙句に猛攻撃パワハラをみんなの前で受けてしまうという、負のループ状態に陥る。

    私が泣くまで人前でやり込められる。

    仕事は与えられないので仕事を見つけてやれば

    君は仕事しなくていい!足を引っ張るな!

    とまで言われる😭 ついには

    余計なことするな!いなくたっていいんだ❣️

    パワハラという言葉も無かった時代。

     何度、泣いた事か、、😭😭

    女性陣からも総スカン❣️

    それだけではなく、女性陣.特に年季の入ったお局様達から3時のお茶の件で総スカンとなる。

    お局様が中心にお菓子などを差し入れて、お茶を全員に配る3時の時間。

    それぞれが持ってきた湯呑み茶碗を2〜30人はいる男性に配るから、それぞれの湯呑みを覚えないといけないとお局様に最初に言われた。

     お茶と一緒にお菓子を1人1人に配る。男性陣1人1人からご丁寧に「ああ!ありがとうございます!お疲れ様です!」と感謝され「とんでもないです。いつもお疲れ様です」と定型分の言葉を交わさねばならない。どこか気持ちがこもってない。「本当はいらないよ。好きな時に飲みたいし、お礼言うのも面倒」
    という声が私の心に聞こえてきた。

    男女雇用均等法なんて出来る相当前の事。

    30分はかける女性全員でのお茶出し。
    無駄以外の何ものでもない。

    そして、当時、効率重視、スピード命で怖い者知らずな私は、お局様もいる場所で、こう提案した。

    「お茶は飲みたい人が飲みたい時に出せば良いのではないですか?今、お茶の機械も売ってるみたいですよ。」

    と。

     生意気にもみんなに賛同を得ようと提案したら、男性陣には賛成してもらえたのに、お局様達から嫌われた。

     後々に理解したけれど、女性達がお茶の準備をしながらの井戸端会議をしたかった、その時間を奪う事は許されなかった。 
     今でも意味のない井戸端会議は苦手である。

     総スカンを受けたため、休み時間には、外に出て、中卒の男の子達と車やバイクの話ばかりしていた。当時は、車の一部を見ただけで車種を当てられた。帰りは首都高をルーレットして走る。暴走族ではない純粋な走り屋。

     ハイスピードで首都高速をグルグル。コーナーリングをギリギリで攻める、後にルーレット族と呼ばれる。気分はレーサーだった。

    初めての仕事はHONDAへ。

    ある時、パワハラ上司から、ホンダ狭山に試作品を運ぶ仕事をゲットした!

     パワハラ上司と開発研究職さんが作る試作品。それをただ届けに行く時間が勿体無いと、いつもこぼしていた。
     今ではバイク便があるけど、当時は無いので誰かが届けに行かねばならない。パワハラ上司や開発職が届けに行くとその分、大事な開発が遅くなる。
     打ち合わせは、ホンダ担当者も忙しいので届けに行った時に出来る訳でもなく。
     打ち合わせはお互い電話で済ませたい。

      
     それでは、その仕事、私がやります!

    丁度、お茶の時間の3時頃からの仕事というのも好都合。ガソリン代も出るし、大好きな運転も出来るし、結果、給料も増えるしで、良い事ばかりの仕事にありつける。

    パワハラ上司は、ホンダの場所は高速道路の関越道を通って片道1時間の狭山なので事故るのではないか?と、嫌味を言ってきたけど、

    大丈夫です!と言い切った。
    (カワサキやマツダ、スズキなどにも行った筈だけど全く記憶にない)

     行く時は、基本、その会社の車で行くのがマナー。
    が、ある時ホンダのシビックなど出払ってて1台も無い。

    そんな時は、別のメーカーの車で行っても大丈夫。
    というのも聞いていた。

    だから私の車で行く。(かなり重宝された)

    だけど、ホンダ狭山の広大な駐車場に着くと、ホンダ車ばかりで、私の三菱ミラージュは、かなり浮く。

    そんな時、いつもホンダの敷地の周りの道路の端に車を置いた。

    試作品をただ渡すだけなので、10分もかからない。

    その日もギリギリで車を幅寄せしようとした。

    幅寄せはコーナーリングとともに、得意分野なはずだった、、

    突然、、とんでもないアクシデントが起きた❣️

    車の右後輪が ドスン!!と、溝に落ちたのだ❣️

    ドスン!と更に落ち込んだ

    スマホも無い時代。周りを見回しても公衆電話も無い。
    会社に助け船を出す事もできない。

    JAFを呼んでも良いけど時間がかかるし、そもそも公衆電話が無い😓

    そして、約束の届ける時間、4時が目の前に迫る。

    そこで、まずは試作品を届ける事にした。

    いつものように担当者に試作品を手渡した後、、
    ダメ元で、勇気を振り絞ってお願いした。

    すみません、車が溝に落ちてしまったので、JAFを呼びたいのですが、電話をお借り出来ますか❓

    と。。

    電話代、お支払いします、
    とまで言った覚えもある(笑

     でも他に方法は見つからなかった。

    すると、、担当者が、あっという間に男性を集めて、私の車に案内するように言われ、、

    5人位かけて、ジャッキを使って溝から生還してくれた。

    その光景は、なんだか奇妙だった。
    みんなホンダのユニフォームを身につけてるのに、三菱ミラージュを助けてくれたのだ。

     なんだか、みんなに笑われた記憶もある。

     これからは堂々と駐車場に入れなさい!とも。

    会社に帰り、パワハラ上司に報告したけど、さらに怒りを買っただけ。

     何でそんな所に置いたんだ!得意先になんて失礼な事をしたんだ!仕事が来なくなったらどうするんだ?と、みんなの前で怒鳴られた。

    私は更に、溝に落ちるより落ち込んだ😓😓😓

     ロッカールームで泣いた覚えが蘇る。

    2度と試作品運びの仕事は来ないかもしれない。と。なにせ、大丈夫です!と啖呵を切って自ら志願した仕事。
     ホンダに失礼な事をした。それによって本当に会社にまで仕事が来なくなったら⁉️と震え上がった。

    突然のHONDAチーム入り

    ところが❣️1週間程たった後、、

    ホンダから、

    次の二輪レースに来ないか?と、パワハラ上司ともども、私も名指しで呼ばれた

    パワハラ上司が、それを受けてビックリ‼️

    周りもビックリ‼️

     私は、そもそもレースの世界は知らなかった。晴海で毎年開かれるモーターショーに行って早い車を選んで自分で乗りたい夢はあったけど、そもそもレースが行われている、という事さえ知らなかった。

    日曜なので、じゃあその分の給料が出るかといえば、出ない。
     でも、ジャッキで助けてくれたのに断るのは失礼だ。

     周りにも入りたくたって入れないレースチームなんだ❣️と言われ、ただならぬ凄い機会を感じた私は、無償でも行く事にした。

     と、いうか、その前に私に断る権利はなかった😢

    そして、二輪レースのHONDAチームに加わる事となった。

     ホンダのチーム担当者がうちの会社に来る回数も増えた。ジャッキで助けてくれた人もいて、その度にお礼を言った

     その時に初めてお茶を出す事に意義を感じた。

     その中で解ったのは、私が持ち込んだ試作品のアンダーカバーという部品がレースで使われる事になったらしい。

     レースで勝つためにはエンジンだけではない、風力も計算されたパーツでスピードは変わる。優勝したパーツを開発出来れば会社の株は上がる

     だから、パワハラ上司他数人の上司と、何故か私が呼ばれた。どうやら、ジャッキ事件が社内でウケて評判になってしまったらしい。もしかしたら、ホンダもその貸しがあるから、無償でも私達は断らない、と思って声をかけたのかもしれない。

     今振り返ると、伝説となった1983年の鈴鹿8時間耐久レースに参戦するための予備レースだった。

     富士スピードウエイに大きな車数台で行く事になった。

     もうパワハラ上司は私をみんなの前で虐めることをしなくなっていた。
     相変わらず女性一同からは嫌われてはいたけど。。

    富士に行く日曜の当日、待ち合わせの場所から、何か嫌な予感がした。

    汚れた英雄

    もしや、、女性は私1人⁉️

    サーキット会場に到着して、与えられたホンダチームの部屋に入ると、作業服だらけの男性達と、汗と油の匂いの部屋の中で、スカートな私は、ただ来た事にさえ後悔していた。しかも、私たちチームだけではなく、どこを向いても女性は、、いない😢

    場違い・・・涙

     しばらくして、ワンピースを着ている女性が部屋に入って来てホッとした❣️
     ホッとしたのも束の間。
     自分とは全然違う絶世の大人の美女で驚愕した。

    が、、その隣に、これまた絶世のイケメンがいた。

    本日の750ccに乗るライダーだった。

    後に知ったけど、草刈正雄主演の映画、汚れた英雄のモデルと言われた男だった。(モデルは何人かいるが、外見的にはこのライターだ)

    ここまでのイケメンと美女の度数は、人生の中で1番だと思う。草刈正雄よりオーラがあった。

    2人とも最後まで一言も何も言わず。それが絵になる2人だった。

     軽いミーティングを円を囲んでした後、再びレースに備えて、みんなそれぞれの部門で準備をする。ジャッキをあげて1つ1つボルトの締まりを確認して、エンジンもボルトも燃料も何度もチェックする。

     優勝を目指しているし、何よりも命がかかってるレースならではの緊迫感。

     物凄い情熱❤️‍🔥がビシビシ伝わってくる。

     私は何度も手伝おうとしたけど邪魔なだけだった。

    それこそ、あれ程嫌がってたお茶汲みさえしようとしたけど、

    そんなの自分でやるよ、と断られる😭

    (会社のヌルさとは正反対な価値観)

    そのあと、部屋からみんな出るよう指示された。

    部屋に残るのは、イケメンレーサーと美女だけ。

    誰かが、

    最後の別れになるかもしれないからね、、
    と言った。

    そう、命を落とすかもしれないのだ。

     より早く走る為には、コーナーを曲がる時、横倒しにして道路につきそうな位にスレスレで走る。それをコーナーを攻めるという。ローで入って徐々にスピードを上げると、より速く曲がる事が出来る。が、、ほんの少しのミスとスピードと運で、転倒すると、、命を落とす、、😢

    だから、抱き合って最後の別れになるかもしれない時間を過ごしているのだ。

    命をかけている人のオーラは物凄い迫力があって、それを目の前にした。

    ふと、我に返った。

    私は仕事らしき仕事をしてないよね?

    情熱をかけた旗振り

    同性を見つけたは良いけど、彼女はレーサーの心の拠り所になっている。
    私は何をしたのか?何もしてないよね?と。

    ましてや主役のライダーはこれから命を落とすやもしれない

     レースは始まった。みんな、真剣に何周かして戻って来るバイクをコックピットで待ち受け、1秒を争うメンテナンスをしている。

     そこには生ぬるさの1つもない。1歩間違えると死に追いやる緊張感で立ち込めている。

    そこで、私は最後の勇気を振り絞って言った,

    何かお手伝い出来る事はありませんか❓と。

    すると、、、

    ここに旗があるから、コレでも振ってみる?
    いつも男性がやるけど。旗振りなら、誰がやっても同じ。バイクのメンテナンスより命に関わらないからね、でも、凄く重いよ⁉️

    重くても私やります❣️

    そして、私はバイクが来るたびに旗を無我夢中で振りました。それこそ情熱をかけて。

    確かに大きくて重かったけど。

    誰かがやらなければならない事なら私がやって、その分、みんなの仕事がはかどるよね?という気持ちからでした。

    MotoGPを楽しむ上で欠かせないフラッグの意味を解説 そしてそのフラッグでレース展開はどうなるの? | モトコブログ

    *イメージ画像を探したけど、これしか見つからず。当時は危険を顧みず、コースに出てバイクが走り抜けるたびに、バイクの横で画像より大きい旗を振ったのです。

    その後も、チームの飲み会も何度も参加した。
    あの美女の姉が経営するスナックは家から近かった。

    イケメンライダーもたまに現れるけど、あまりのオーラの為、最後まで挨拶すら出来ず・・(誰とも挨拶しない、それが絵になる無口すぎるライダーだった)

    レースクイーン

    レースクイーンという名前(職業?)が、暫くしてから聞くようになった。

    「あの時旗を振った仕事が、レースクイーンという名前になった」とホンダチームの人から聞かされた覚えがあるので、それ以前は、レースクイーンという名称はなかったと思う。

    で調べても

    1960年代後半に小川ローザらがサーキットでモデルとして活躍したのが起源といわれている[1]。以後その形態にあまり変化はなく、開会式や表彰式のアシスタントとして従事する程度であったが、1984年に開催された日本最高峰のオートバイ耐久レース「鈴鹿8時間耐久ロードレース」で、一部チームのキャンペーンガールがチーム名のロゴマークを入れた水着を着て応援し、話題となった。

    やはり、早くても1984年に、レースクイーンという言葉が出たようです。私は1983年の6月頃にやりました。

    私はハイレグ水着ではありません。

    普通の服(コンサバ)で旗を振って応援しました🤗

    棚からぼた餅の年に

     その年は東京ディズニーランドがオープンした年。ホンダの社員さんも加わってみんなで行った。(パワハラ上司もいた)

    でもレースに参加したのは、あの時の1度だけ。
    鈴鹿は泊まりがけだし、流石に私を連れて行く訳にはいかなかったのでしょう。

     それよりも、その年の鈴鹿サーキットで名を上げたチームなので社内で予算も降りて私達の出番は無くなったのだと思います。

     今なら、部品のメーカー社員、しかも女性がチームホンダに入って手伝うなんて話は無い事だけど、当時のホンダは本格的にレースに参戦するかしないか?の直前で予算も含めて紆余曲折の時期。だから車やバイク好きな人にお呼びがかかったのでしょう。

     富士に連れて行って貰ったのは、近くて1日の日帰りだし、合格した部品の開発部門のアシスタントとして声がかかったのもあったのでしょう。私が持ち込んだ試作品が採用されたので縁起担ぎのような。
     結果、レースの順位も良くなかったし、何も出来ませんでしたが😓

     でも会社の給料も上がって夏のボーナスも特別に頂けた、棚から牡丹餅のような1年間でした。
     やったのは、、試作品運びと旗振りだけだったけど😅

    あのとき、パワハラ上司と喧嘩したり、3時のお茶汲みに批判しなければ、そういうコースは無かったなあ、と思います。

    人生を変えた一コマ

     そして、あの時の熱いホンダチームと、絶世の美女と、命をかけて走るライダーとの衝撃的な出会いは、私の人生を大きく変えた1コマでした。

     その後、ホンダは世界を目指して活躍していくのですから、その先駆けのパワーを頂けたのです。

     情熱と命をかけて成し遂げる仕事がある事に魅せられました。みんな給料なんか出なくても勤務時間を超えて情熱をかけて仕事をしたのです。

    優勝する!という共通の1つの目的のために。

     今では労働基準法に触れてしまうような事かもしれませんが、この頃から、会社や社会の奇妙な方針や枠に従わない、情熱をかけて好きを仕事にする!という生き方を模索し始めます。

     起業して自分で仕事を始めるキッカケになった、1つの出来事でした。

      また、多種多様な車を運転出来た事はその後もかなり仕事に生かせました。

    とりあえずライダーを目指す

     上司のパワハラは、しばらくすると再発して、お茶の時間は相変わらず。

     会社員は、ただいるだけで給料が貰えるので、みんなサボってばかり、会社の愚痴ばかり、人の陰口ばかりの会社勤めに嫌気がさし、、

     そこで、会社を1年で見切りをつけ辞めました。

     そして、750ccライダーを目指して、まずは大型のバイク免許を取りに行きました(笑

     けれども、あれほど練習していったのに、、教習所で倒れた750ccバイクを起こせず(涙

     教官は笑いながら、小型免許から取るように!と。

     結果、小型免許は取って、カブというアンティークなバイクに乗りましたが、、あまりの力の無さでライダーへの夢はアッサリ諦めました 笑

     そして、アンティークカフェのマスターの影響から、、

    ▶️企業のきっかけ<AntiqueとVintageとの出会い>

     トレンドというスピードを追い求める事を辞めて、正反対のAntiqueに180度の方向転換をします。

    続き▶️起業のきっかけ<ぽに〜て〜ると華やかな誤算?>

    owner Yumiヒストリー

    起業のきっかけ<私が体験した70s~80s>

    初めまして!オーナーのYumiです☆ 

    yumi-Vintage

    私の若い頃(70~80年代)は黄金のファッション期でした

    東京で生まれた私は、世界で最初のスタイルやブランドの大流行を丁度、中学生の時から目の前で経験しました。

    70年代後半。

     中学生の時、新宿のディスコブームに始まり、原宿の竹下通りが一番ホットな時期。同潤会アパートも健在。

    代々木公園の広い道路はホコ天で、たけのこ族(入っていませんが)。ローラーやロックンロール族は高校の時です。

    80年代

     たまたま、髪の色もスカートの長さも何でも自由な高校に通っていて、お洒落を楽しみました

    JJ

    *1980年 ファッション誌 JJ(ジェイジェイ)

    お洒落に貪欲な私達は、バイト代が入ればJJなどのファッション雑誌で見た新しいアイテムを友達より先にゲットしたい! 流行の色やスタイルに乗り遅れたくない!!

     この時代のファッションは一般的にはトレンドに追従することが求められますが、それに飽きると、個性を求めて先の先を見て、流行前のスタイルを自分で作ったり、新しいブランドを探していました。

     ミニボストンバッグは私達が流行らせたんじゃないかな、、って今でも思います^^

     みんなお洒落に敏感でした。

    髪型は聖子ちゃんカットでしたが(笑

    anan 現在はその頃のスタイルの繰り返しやアレンジばかりで、個性を求めていたその頃を懐かしく思うこともあります。

    そして・・80年代初期”ニュートラ”によるブランドブーム到来!高校生でした。

    他にもハマトラ、プレッピー、アイビー、男の子もオシャレでした。

    ニュートラは、実はブランドブームの仕掛け人なんです

     

     1995年発売an・anの雑誌でも、再びニュートラブームが繰り返されいますが、今見ても飽きのこない大人のエレガントな上品スタイルですよね。

     原宿では、タケノコ族からロックンロール(50s)を踊っていました。

     次にバンドブームが起きましたが、バンドより車やバイクにハマっていた私は、横で開かれていた代々木フリーマーケットで出店していて、その後すぐにバンド達やタレントさんが買いに来てくれる古着屋を経営していました。

     バンドブームの到来で、60s、70sのツイギーや、オードリーヘップバーンに憧れて、ピエールカルダンなどのブランドやレトロな古着文化も始まっていました。

     海外ブランドに触発されて、日本のブランド(DCブランド)ブームも始まりました。モノトーンのコムデギャルソン、Y‘s などカラス族。ピンクハウスなどロリータ、、乙女族・・(ボディコン。そしてお立ち台は品がないのでファッション文化から除外します笑 ジュリアナは行った事ありません)

     

    ハイブランド・コンサバとの出会い

     私が20歳の頃、初めてグッチやセリーヌなどのハイブランド品に出会い、その美しさと歴史に魅了されました

     当時はシャネルはまだ日本に来ていません。エルメスはかなりハイレベルなので、可愛くて細部のディティールが優れていたGucciが人気!

     ワンピースにブレザーなどのお嬢様風スタイルに、エルメスやグッチなどの海外ハイブランドアイテムを組み合わせたスタイルが大流行しました。

     ブランド品を身につけ、上品なコンサバを目指していました(笑

    ▶️owner Yumiヒストリー

    Rococoはじめて物語(ヒストリー)

    2006年 株式会社Rococo-Opere創業

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    自分が一番好きだったヨーロッパ物のVintage Shopを新たに開こうと、仕入れ先開拓のためヨーロッパの、フランス、ベルギー・オランダ〜各地を巡る。オークションも参加。クリニアンクールやイギリスのカムデンロックマーケットなど周る。オールドグッチを中心に集める。

      ▶️owner Yumiヒストリー

    (バイヤー業と高円寺・下北沢に店舗運営)

    2009年 店舗をスタッフに全て譲り、オールドグッチを始め、レアなハイブランドのヴィンテージに特化したRococoを高円寺北口にオープン!

    オープン当初

    「森ガール」で「親子で買い物が楽しめる」と取材・掲載される。

     

    2012年 お客様のご要望により遠方のお客様でも利用できるネットショップをオープン。

    COMOモデル 前野千代子さん

    2012年 vintage mix高円寺版

     

    VINTAGE LOVER BOOK vol.2

     

    2014年〜 セキュリティー強化のため独自サイトを立ち上げ、全面リニューアル! 

    2015.8月

     GucciMUSEO(グッチ博物館)にRococoのコレクションが寄贈されました!Click!!

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    2016年〜 娘も入社して親子で経営(息子も登場〜孫も誕生)

    2019年「昭和の憧れ」オールドグッチが人気 個性豊かな創業家デザインに魅了

    産経新聞 オールドグッチ ロココ ニュース

    2020年 Rococoインタビュー記事

    2024年  RococoOPEN17周年!!

     店舗もサイトも新規リニューアル! 

    owner の思い

     自由な校則の中学・高校時代を送り一通りのファッションと流行を経験。

    でも、オシャレは好きだけど・・やっぱり人と同じは嫌だ!!

    新しい物がいい!ピカピカがいい!はそろそろ卒業しよう!

    と古着に目覚めました。20歳の時。

    ▶️起業のきっかけ<そして私はバイヤーになった!??>

     日本に古着屋がほとんどない時代の80年代初め。

    都内ファッションの中心地、下北沢~高円寺などに DCブランド~USA古着店舗運営を始めたのが22歳の時。古着バブルの直前からでした

     セレクトした個性的な古着は飛ぶように売れて・・目の前を商品とお客様が流れてゆきました

     延べ3万人の方に、たくさんのスタイリストをさせて頂きましたm(_ _ )m

    が・・ビックリマーク

     お店も大きくなって、商品も増えると右から左にお客様も商品もただ漠然と流れる日々になってしまいました。大変な思いをして仕入れ、選びに選んだ大切な子が、今、どこでどうしているのか解らないしょぼん

     もっと、、お客様一人一人に大切に丁寧に売りたい!

     そして・・古い物の中でも、もっとレアで良質な物を取り扱いたい!

    そんな時に出会ったのが、ヨーロッパの蚤の市。フランスのクリニアンクールやイギリスのカムデンロックマーケット。そして、Vintageショップという存在です

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    ▶️フランスでのバイヤーとVintageShop経営

    そこでは、全てがアメリカよりも洗練された風景でした

    何十年も前に職人さんの手で丁寧に作られた、新品にはないデザインの、ブランドのバッグや雑貨が並んでいました

     年を重ねる毎に味わいが増す上質な素材感

     そして、人々に愛され大切にされながら、次の世代に受け渡されています

     ヨーロッパの人達は、歴史を大切にしていて、建物も車もドレスも、古い物に価値を見出して生活を営んでいます

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     ヨーロッパを旅行すると、新築のホテルより古びたブロカントな建物の方が高い宿泊費なのは、そのためです

     RococoのようなVintageショップも沢山立ち並び、セレブな人たちは競って1点ものを求めVintageショップでお買物をします

     時が経過しても、使い込む程に味が出る

     一点一点、職人さんの手で丁寧に作られたVintage

    *Antiqueは一般的に100年を超える骨董的な物ですが、Vintageはそれを超えない、戦後作られた大量生産品ではない丁寧な作りと上質な素材の逸品を言います

     

     特にブランド品は、選び抜かれた高級素材を使っていますし、今でもそのブランドでメンテナンスが受けられます

     歴史と伝統とクオリティが高いレアなヨーロッパブランドVintage品を希少品だという事を理解してくれる人に丁寧に販売したい!!

     得意なオールドグッチはどこよりも良質な物を集めたい!!

    とスタートしたのがRococoです

     選びに選んでいるので、珍しい子は・・↓

    kizou-4

     GucciMUSEO(グッチ博物館)にRococoのコレクションが寄贈されました!⇒Click!!

      けれども・・・レアなアイテムは、手に入れる方が大変なんです

     だからROCOCOは高円寺の片隅の小さな隠れ家的な店舗です

     ただ、オンラインショップにも力を入れて、世界中のお客様へ一人ひとり 丁寧な対応を目指して営業しております

    「Vintageの素晴らしさを伝えることをモットーに」

    受け継がれてきた歴史・思いをお客様に伝えるお手伝いをROCOCOはしています

    中古品やリサイクル品=Vintageではありません
    最近は流行りもあってか、なんでも”Vintage”と謳う風潮は悲しいことですね

    *Antiqueは一般的に100年を超える骨董的な物ですが、Vintageはそれを超えない、戦後作られた大量生産品ではない丁寧な作りと上質な素材の逸品を言います

    一つ一つこだわり抜いた素材で職人さんが造りあげた逸品なのです

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    トレンドに振り回され、シーズンごとにお別れをしてしまうアイテム達・・
    それは本当に価値のあるものでしょうか?

    大量に生産され、大量に廃棄される事は地球に優しい事でしょうか?

    →サステナブルファッションへの取組み(Gucci、CHANEL))

    歴史・品格のあるハイブランド、質感やデザイン、希少性にこだわり

    セレクトした本格Vintage品をロココで手に入れましょう♫

    ロココは、私の好きなVintageをたくさん集めた空間

    長年の経験を活かし、より的確なアドバイスでvintageの良さを伝えられるように、丁寧で誠心誠意な接客を心がけております☆

    是非、お気軽に遊びにいらしてくださいねニコニコ

    心よりお待ちしておりますm(_ _ )m 

     

    予約くださいませ☆

    yumi-Vintage

    ▶️owner Yumiヒストリー

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