「ぽに〜て〜る」と華やかな誤算
日本で初めての、売ります買います情報誌「ぽに〜て〜る」という雑誌に関わった。
ヤフオクもメルカリも無かった、1983年頃の事。
本屋か古着屋で見つけた「ぽに〜て〜る」
フリーマーケット情報も掲載されていたので、200円で買ってみたけど、その雑誌は雑誌ともいえない不完全さだった。
誤字脱字だらけ。変集長と書いてあったり、売ります情報に人間があったりゴリラが載ってたり🤣
「ぽに〜て〜る」と高円寺との出逢い
とにかく笑えるオンパレード奇妙すぎる情報誌で、オカルト雑誌「ムー」や星新一SF小説好きだった私は、バイト募集に引っかかり、高円寺という行った事もない未知な街に面接に行く事になった。
面接に行ったら、小さな木造のアパートの一室で、自宅兼事務所は汚過ぎた。
出迎えた社長は30才程のバンドマン(世はバンドブームに入る少し前)で、散らかってる部屋で会った時から最後まで何か探し物をしていた。探し物を探している途中で、また探し物が増えるというループ状態に陥っていた。
唯一の社員?であった奥さんは、双子を産んで1人が死産で入院中で大変な時だと聞かされた。
車に乗って来ている私を見るなり、配本という仕事があると説明をする。
私はその汚い部屋から脱出したい一心で、説明を受けた本屋や古着屋の配本に志願すると、喜ばれてそのまま採用となる。だから合格とか不合格という問題でもなく、面接しに来たのは後にも先にも私一人だけ。 当時、ポニーテールをしていた私は不合格になる理由もなく採用された。
また車を持っていたから、というのは会社員時代とパターンが同じ。
ただ、嫌味を言われるばかりの会社員時代とは正反対で、何をやっても感謝された。
▶️起業のきっかけ<初代前レースクイーン?>
ついでにと、売り上げを回収したら、ついでに、、がどんどん増えていった。
遂に古着屋の取材をしたり、挙句に広告も取ってきた。
広告といっても、割と大きい枠が5000円ほどと破格値。通称10万部発行!と書いてはあったけど、実際には千冊程だった事は後ほど知る。
暫くすると、事務所兼自宅に奥さんと赤ちゃんが帰って来て、奥さんが版下作りをしてる間に、赤ちゃんの子守もして、ついでにと、編集の仕事や版下作りをしたり。
当時はパソコンも無かったので、一文字一文字を探して打つ写植の時代。
車で写植屋まで行ったり、締切ギリギリを争うので、そこでも私の車は役に立つ。
だから誤字脱字も当たり前なのだ、と、関わって初めて知る。
だけど、お金はいつも火の車で、実際、お金が無いからミルクも買えない、とこぼしていた。
そんな中でも明るく、優雅に友達を呼び、その友達は必ず酒とツマミを持ってくるから、仕事はいつもはかどらない。ミルク代も友達に借りていた。
けれどもみんなで飲みながら楽しく制作していた。
人生はジェットコースター
社長は吉祥寺の曼荼羅という今でも伝説を誇るライブハウスで、定期的にバンドのボーカルをやっていて、そのファンの男性もよく飲みに来ていた。
その男性は「Mr.バイク」の編集者で、バイク大好きだった私は、ネタがなくてページが埋まらないからと泣き言を言われ・・・
まんまと乗せられて、2ページにも渡って私が掲載される。タイトルは「人生はギャンブルだ!」か、「人生はジェットコースター」だったと思う。見開きで、顔写真アップとインタビュー記事。
そこで何を語っているのかも今更、怖いもの見たさで見てみたいけど、確かに、私の人生はず〜っと山あり谷アリ、行き当たりバッタリ。ジェットコースターのようで、それでも、有難い事に、人や運には恵まれた方かな、と思う。
お金よりも、、
「ぽに〜て〜る」の社長は、バンドでは生活できないから、雑誌を作る事にしたけれど、雑誌も大赤字になっていた。
鶏(バンド)が先か?卵「ぽに〜て〜る」が先か?問題でよくみんなで討論した。
TBSがその話を聞きつけ、ドラマ化したいと取材を受け、脚本を書いてる最中だった。
ベンチャー起業という言葉が世に出始めた頃で、若者が起業する姿を描きたかったらしい。
社長は、100万はある借金や、未払いの私の給料をドラマ化される事で、返せる❣️と希望を明るく語る。
テレビでドラマ化されても、モデル料も何も出ないと知っても、「ぽに〜て〜る」の雑誌は宣伝してくれるというので、きっと売れるようになる❣️そしたら、未払いの給料を支払える❣️と豪語した。
けれども、私はその時、未払いのままになるのは覚悟していた。
なにせ、国民金融公庫からの100万円の借入だけでなく、沢山の友人からの借金も抱えていて借金取りも毎日のように来ていた。当然のように家賃も滞納が当たり前。
私への支払いが先に、なんてあり得ない。
それよりも、雑誌を通して次々に出来る友達や人脈が大きく広がっていた。
その中に、2年後に結婚する人もいたし。
何よりも、最初のお店を紹介してくれた今でもお付き合いのある友達もいた。
古着屋店主はみんな横の繋がりを求めていたし、売上アップの方法に悩んでいた。「ぽに〜て〜る」は、一つの横の繋がりの唯一無二の雑誌だった。インターネットもパソコンも何も無い時代である。
私は生意気にも店主に相談されれば売上アップの方法を一緒に本気で考えてアドバイスもしていた。それがその後の古着屋経営で生かされるとは思わなかった。
また、その中に五千円の広告取りを織り交ぜたので、難なく広告が取れた。
フリーマーケット主催
ある時、キリンビールから直々にフリーマーケット開催主催の案件がきた。
新宿に高島屋が建築される直前の広い空き地で、キリンビールが夏の期間だけビアガーデンのドームを立てて夏だけ開催するという企画。
その横の空き地でフリーマーケットをしたいという、その主催を依頼された。100万円出すと言う。周りの友人からだけではなく、借金取りに追われていた社長はその話にすぐに飛びついて契約をした。
だけど、雑誌作りとバンドでそんな時間も無い。
それよりも、要領悪すぎる社長はいつも探し物と、友達を呼んでの飲み会で忙しかった。
私と奥さんが説教しても、笑って誤魔化される。
だから、フリーマーケット主催の矛先は、やはり私に矢が当たる。
逆に言えば私しかいなかった。
仲良くなった奥さんには生まれたばかりの赤ちゃんがいる。
その時の私は、バイヤー業をやり、代々木のフリーマーケットに出店していたり、広告取りの関係の人脈があり、出店したい仲間は大勢いた。
あっという間に10人程、集めた。
その中に1年後に結婚した夫もいた。
アメリカでのバイヤー仲間もいた。
炎天下の中、出店料無料で3日程開催したが、明治通りから奥まった場所だったからか、買う人は集まらず💦
私は懸命にチラシ配りをした記憶がある。
キリンビールとしては、フリーマーケットを100万で私達に丸投げ状態なので、売れようが売れないだろうか、どうでも良い。ビアホールがメインなのだから。
華やかな誤算
翌年、TBSでドラマ化されたタイトルは
サラリーマンが意を気してベンチャー起業をしたものの結局、倒産してしまうドラマ。
今では、脱サラとか、ベンチャーとか、フリーランスの人は珍しくないが、若者が起業する、というのは珍しい時代であった。
*ホリエモン曰く、1997年の自分が卒業(中退)した年、東大生でも起業したのは自分を入れて3人だけという時代。その10年以上前の話。
制作途中でシナリオ作者が病気のため変わったという経緯もあり、「ぽに〜て〜る」同様、波瀾万丈なドラマになった。
挙句、翌年自殺した古尾谷雅人主演。
そして、、私の役をやったのは、、あの、、
戸川純😱😱
<役所>パフォーマーとして特異な才能を持ち、ミュージシャンを目指して上京して来たが挫折、全子の店で働くうちに再び音楽活動に本気で取り組むようになる。
検索したら動画が出て来た!しかも1話の一番初めと、その3分後。
戸川純がフリーマーケットで着物を着て踊り狂い雑誌「ぽに〜て〜る」を宣伝して売る役所!
(当時の私は見ていない)
絶対に私は戸川純のキャラじゃないのに、製作者の目にはそう映ったらしい😓
ドラマは、ヒットする事もなく、その前に「ぽに〜て〜る」は倒産していた笑
まさしく「華やかな誤算」だった
そして、ぽに〜て〜るは倒産した
キリンビールから受け取った100万など、あっという間に、友達への借金返済で無くなって、私は1円も受け取らなかった。
それほど周りにお金を借りていて縁を切られていた、ちょっと可哀想な社長であった。
じゃあ、私が何で生活していたかといえば、、
バイヤー業とフリーマーケットと、そして、広告にお金を出してくれるスポンサーのアルバイトだった。
ダイヤモンドを売る仕事に奥さんと行ったり、今も残る、オイシックスという有機栽培にこだわる 初期の会社に働きに行ったり。
お願いされて行くので短期の割に時給は良かった。
けれども、ついに国民金融公庫に返済出来なくなったのだ。
宝島社が、ぽに〜て〜るを??
「ぽに〜て〜る」は、私が入った一年後に倒産した。
なんとなく予想はしていたので、ビックリはしない。
社長は50万ほどの給料が未払いという事を今でも気にしているけど、「ぽに〜て〜る」での人脈がなかったらバイヤーも古着屋も経営していなかったから。
なにせ、年中、借金取りが押し寄せてきていて、その度に居留守を使ったり、笑って誤魔化したり、挙句、雑誌のネタにもしていた明る過ぎる社長夫婦であった。
いよいよ倒産となった時、、
なんと❣️当時、若者に人気の、オタク、サブカル雑誌「宝島社」が、「ぽに〜て〜る」を買ってくれるという夢のような有難い申し出があった。
こんなに面白い雑誌をなくすのは勿体ない、と。
『
*宝島は、宝島社から発行されていた看板雑誌。 1973年7月10日に晶文社より『WonderLand』として創刊。1970年代のサブカル文化の一翼を担った。休刊に至るまでに何度もの雑誌自体のコンセプトの変更を経た。刊行期間: 1973年7月10日 – 2015年8月25日
買ってくれる、といっても最後に無償だと言われる。けれど、自分たちは借金を負って倒産するけれど、名前だけでも残せるなら!という社長夫婦の願いでもあった。
ちなみに、現在、この社長夫婦は、荒波を乗り越えて、ハンバーガーショップを経営している。
社長と当時、子守をしたみほちゃん
私が宝島に??
倒産が決まってしばらくして、社長夫婦から、提案された。
私が宝島に行き、「ぽに〜て〜る」の編集長となる事を。
社長夫婦は倒産(破産)したので、宝島に行けないのだ。
なので矢は私にしか当たらない。
宝島からの要望である。
編集者ではない、編集長だ。しかも正社員だという
今でいうとM&A。起業合併?いや吸収?
断っても構わないとも社長に言われたけれど、宝島からも直々に面接されてお願いもされた。確かに「ぽに〜て〜る」を宝島で出版するのに、今までの関係者が1人もいないというのは、絵にならない。
最初から編集長として、まずまずの給料も提示された。最初は少ないかもしれないけど部下もつける、とも言われた。
だけども、、私があの宝島に⁉️
まさかの、、またもやの棚ぼた事件だ。
ホンダサーキットチームに入ってレースクイーンをした、棚ぼた事件を思い出す。
書くのは、この通り嫌いじゃない。
幼少期の夢は小説家だった。
悩んだ。私に編集長など務まるものだろうか?
考えた事もなかったし。
小説家と編集長は似てるようで似てない気がする。
古着屋経営のオファー
そんなある時、「ぽに〜て〜る」の仕事を通して仲良くなった友達から、下北沢で古着屋をやらないか?という話がきた。彼女は渋谷で古着屋を持つ唯一、同年代同性の今でも交友のある友達。
でも条件だけ比較すると、今考えても最悪中の最悪。
「場所は下北沢西口3分と言っても 道路から奥まった位置にあり、看板しか見えない建物の、さらに細い螺旋階段を上がった2階。」
「建物は、木造の50年は経過しているボロボロアパート。それを上手く改装して7件の店舗を入れているけど狭すぎる。トイレも共同で和式、とにかく全てが古い」
「見に行くと個性的過ぎる男性ばかりの店主で、嫌味を言う人もいたし、隣の店主のRockな男性店主は、ヘッドホンで音楽ばかり聞いていて、挨拶をしても返さない(最後まで)」
大家さんと面接をすれば、
「半年契約でその後、絶対に出ていってもらう。その契約書は公正証書を作りサインを貰う」
「代わりに保証金等一切ない、前家賃15万円のみで良い」
今考えても、最後の条件以外は、条件悪すぎ!!
どう考えても、正社員の宝島の方が条件が良いはずなのに、、、
まさかの古着屋経営を選んでしまう。
*でも、宝島社は2015年に倒産してしまうので、私の選択は正しかった