• Rococoは全国送料無料!返品もOK♪

  • ownerr

    華やかな誤算

    「ぽに〜て〜る」との出逢い

    日本で初めての、売ります買います情報誌「ぽに〜て〜る」という雑誌に関わった。

    ヤフオクもメルカリも無かった、1983年頃の事。

     フリーマーケット情報も掲載されていたので、200円で買ってみたけど、その雑誌は雑誌とも言えない不完全さだった。
     誤字脱字だらけ。変集長と書いてあったり、売ります情報に人間があったりゴリラが載ってたり🤣

     とにかく笑えるオンパレード情報誌で、オカルト雑誌「ムー」や星新一SF小説好きだった私は、バイト募集に引っかかり、高円寺という行った事もない街に面接に行く事になった。

     面接に行ったら、小さな木造のアパートの一室で、自宅兼事務所は汚過ぎた。

     社長は30才程のバンドマンで、散らかってる部屋でいつも何かを探していた。
     唯一の社員?であった奥さんは、双子を産んで1人が死産で入院中で大変な時だと聞かされた。

     車を持ってる私は、まずは本屋周りの配本には重宝された。
     ついでにと、売り上げを回収したら、ついでに、、がどんどん増えていった。

    遂に古着屋の取材をしたり、挙句に広告も取ってきた。

     広告といっても、割と大きい枠が5000円ほどと破格値。通称10万部発行!と書いてはあったけど、実際には千冊程だった事は後ほど知る。

     事務所兼自宅に行くと、奥さんも帰って来ていて、ついでにと、赤ちゃんの子守もして、ついでにと、編集の仕事や版下作りをしたり。

     当時はパソコンも無かったので、一文字一文字を探して打つ写植の時代。
     車で写植屋まで行ったり。

    だけど、お金はいつも火の車で、実際、お金が無いからミルクも買えない、とこぼしていたが、社長夫婦は優雅に友達を呼び、その友達は酒とツマミを持ってくるから、仕事はいつもはかどらない。ミルク代も友達に借りていた。

     けれどもみんなで飲みながら楽しく制作していた。

     他にも吉祥寺の曼荼羅という今でも伝説的なライブハウスで、定期的にバンドのボーカルをやっていて、そのファンの男性もよく飲みに来ていた。

     その男性は「Mr.バイク」の編集者で、バイク大好きだった私は、ネタがなくてページが埋まらないからと泣き言を言われ。

     まんまと乗せられて、2ページにも渡って私が掲載される。タイトルは「人生はギャンブルだ!」か、「人生はジェットコースター」だったと思う。

     そこで何を語っているのかも今更、怖いもの見たさで見てみたいけど、確かに、私の人生はず〜っと山あり谷アリ、行き当たりバッタリ。ジェットコースターのようで、それでも、有難い事に、人や運には恵まれた方かな、と思う。

    お金よりも、、

     「ぽに〜て〜る」の社長は、バンドでは生活できないから、雑誌を作る事にしたけれど、雑誌も大赤字になっていた。
     当たり前のような話だけど。

     TBSがその話を聞きつけ、ドラマ化したいと脚本を書いてる最中だった。
     なんでも、ベンチャー起業という言葉が出始めた頃で、若者が起業する姿を描きたかったらしい。

     社長は、100万はある借金や、未払いの私の給料をドラマ化される事で、返せる❣️と希望を明るく語る。

     テレビでドラマ化されても、モデル料も何も出ないと知っても、「ぽに〜て〜る」の雑誌は宣伝してくれるというので、きっと売れるようになる❣️そしたら、未払いの給料を支払える❣️と豪語した。

     けれども、私はその時、未払いのままになるのは覚悟していた。

     なにせ、国民金融公庫からの100万円の借入だけでなく、沢山の友人からの借金も抱えていて借金取りも毎日のように来ていた。

     私への支払いが先に、なんてあり得ない。
     それよりも、雑誌を通して次々に出来る友達や人脈が大きく広がっていた。

    その中に、2年後に結婚する人もいたし。
     何よりも、最初のお店を紹介してくれた今でもお付き合いのある友達もいた。

     古着屋店主はみんな横の繋がりを求めていたし、売上アップの方法に悩んでいた。ぽに〜て〜るは、一つの横の繋がりの唯一の雑誌だった。インターネットもパソコンも何も無い時代である。

     私は生意気にも売上アップの方法を一緒に本気で考えてアドバイスもしていた。それがその後の古着屋経営で生かされるとは思わなかった。

    華やかな誤算 

    翌年、TBSでドラマ化されたタイトルは

    華やかな誤算 
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E3%82%84%E3%81%8B%E3%81%AA%E8%AA%A4%E7%AE%97

     サラリーマンが意を決してベンチャー起業をしたものの結局潰れてしまうドラマ。
     今では、脱サラとか、ベンチャーとか、フリーランスの人は珍しくないが、若者が起業する、というのは珍しい時代であった。
     制作途中でシナリオ作者が病気のため変わったという経緯もあり、「ぽに〜て〜る」同様、波瀾万丈なドラマになった。
    挙句、翌年自殺した古尾谷雅人主演。

     そして、、私の役をやったのは、、あの、、

    戸川純😱😱

    <役所>パフォーマーとして特異な才能を持ち、ミュージシャンを目指して上京して来たが挫折、全子の店で働くうちに再び音楽活動に本気で取り組むようになる。

    検索したら動画が出て来た!しかも1話の一番初めと、その3分後に戸川純が着物を着て踊りながらフリーマーケットで雑誌「ぽに〜て〜る」を売る役所!

     絶対に私はそんなキャラじゃないのに、製作者の目にはそう映ったらしい😓

    ドラマは、ヒットする事もなく、「ぽに〜て〜る」は売れる事もなく、倒産する事になった。

    まさしく「華やかな誤算」だった

    フリーマーケット主催

    その直前だったか、キリンビールから直々にフリーマーケット開催主催の案件もきた。

    新宿に高島屋が、建築される直前の広い空き地で、キリンビールが夏の期間だけビアガーデンのドームを立てて夏だけ開催するという企画。

    その横の空き地でフリーマーケットをしたいという、その主催を依頼された。100万円出すと言う。周りの友人からだけではなく、国民金融公庫からも100万円は借りていた社長。その話にすぐに飛びついて契約をした。
     だけど、雑誌作りとバンドでそんな時間も無い。
     それよりも、要領悪すぎる社長はいつも探し物と、友達を呼んでの飲み会で忙しかった。
     私と奥さんが説教しても、笑って誤魔化される。

    そこで、やはり私にフリーマーケット主催の矛先が当たる。
     逆に言えば私しかいなかった。
    仲良くなった奥さんには生まれたばかりの赤ちゃんがいる。

     その時の私は、バイヤー業をやり、代々木のフリーマーケットに出店していたり、広告取りの関係の人脈があり、出店したい仲間は大勢いた。

    あっという間に10人程、集めた。
     その中に1年後に結婚した旦那もいた。
     アメリカで、ラスベガスに行ってギャンブルしたバイヤー仲間もいた。

    炎天下の中、出店料無料で3日程開催したが、奥まった場所だったからか、買う人は集まらず💦

    私は懸命にチラシ配りをした記憶がある。
    キリンビールとしては、フリーマーケットを100万で私達に丸投げ状態なので、売れようが売れないだろうか、どうでも良い。ビアホールがメインなのだから。

    そして、ぽに〜て〜るは倒産した。

    キリンビールから受け取った100万など、あっという間に、友達への借金返済で無くなって、私は1円も受け取った覚えはない。
     それほど周りにお金を借りていて縁を切られていた社長であった。

    じゃあ、私が何で生活していたかといえば、、
    バイヤー業とフリーマーケットと、そして、広告に大金を出してくれるスポンサーのアルバイトだった。
     ダイヤモンドを売る仕事に奥さんと行ったり、今も残るオイシックスという有機栽培にこだわる会社に働きに行ったり。時給は良かった。
     
    けれども、ついに国民金融公庫に返済出来なくなったのだ。

    ぽに〜て〜るは、私が入った一年後に倒産した。

    宝島社が、ぽに〜て〜るを??

     なんとなく予想はしていたので、ビックリはしない。

     社長は50万ほどの給料が未払いという事を今でも気にしているけど、ぽに〜て〜るでの人脈がなかったらバイヤーも古着屋も経営していなかったから。

     なにせ、年中、借金取りが押し寄せてきていて、その度に居留守を使ったり、笑って誤魔化したり、挙句、雑誌のネタにもしていた明る過ぎる社長夫婦であった。

    いよいよ倒産となった時、、

    なんと❣️あの宝島社が、ぽに〜て〜るを買ってくれるという、有難い申し出があった。
    あんなに面白い雑誌をなくすのは勿体ない、と。
     買ってくれる、といっても、無償だ。
     自分たちは借金を負って倒産するけれど、名前だけでも残るなら、という社長夫婦の願いでもあった。

    ちなみに、現在、この社長夫婦は、荒波を乗り越えて、ハンバーガーショップを経営している。

    BURGERS N.Y 社長の娘さんと(当時、赤ちゃんだった娘さんの子守りもした)

    私が宝島に??

    社長夫婦から、ある時、提案された。

    私が宝島に行き、ぽに〜て〜るの編集長となる事を。
    社長夫婦は倒産したので、宝島に行けないのだ。

    なので矢は私にしか当たらない。
    宝島からの要望である。
    編集者ではない、編集長だ。しかも正社員だという。

    書くのは、この通り嫌いじゃない。
    幼少期の夢は小説家だった。

    だけども、、私があの宝島に⁉️
    まさかの、、またもやの棚ぼた事件だ。
    ホンダサーキットチームに入ってレースクイーンをした、棚ぼた事件を思い出す。

    悩んだ。私に編集長など務まるものだろうか?
    考えた事もなかったし。
    小説家と編集長は似てるようで似てない気がする。
     断っても構わないとも社長に言われたが、宝島からも面接されて、直々のお願いもされた。

    そんなある時、ぽに〜て〜るの仕事を通して仲良くなった友達から、古着屋をやらないか?という話がきた。

    →続き<古着屋経営はミラクル>

    owner 青木由美ヒストリー

    <そして私はバイヤーになった!?>

    三浦和義がキッカケに??

    20才の頃、自分に全く合わない会社員生活を辞めて、他にも理由があり、実家を離れて一人暮らしをしていた。
     たまに、バイトしていたイギリスアンティークカフェのマスターから教えて貰った代々木のフリーマーケットに出店しながら、「ぽに〜て〜る」という奇妙な売ります書います情報誌を作るバイトをしていた。
     何か起業しよう、と、ぼんやりとTVを見ていたら、ロス疑惑の三浦和義事件を報道していた。
     丁度、三浦和義が経営する代官山のアンティークショップ、フルハムロードが映し出されていた。
     小洒落た見た事ないアンティークな海外の古着やグッズが並んでいた。

    そこで、私のミラクルが発動した。
     三浦和義は、ロスアンゼルスのフリーマーケットなどで買い付けしている最中に奥さんを銃で撃ち殺して自分の足も自分で撃って保険金詐欺をしようとした、と報道している。
    と、いう事は、ロスのフリーマーケットに行けばこの素敵な品物が手に入るのね?
     きっと、この品物はこれから売れる!と確信する。その前に自分だけのコレクションにしたい❣️

     そこで、私は情報を得ようと本屋に行った。
    今と違ってネットもスマホも無い時代。
     当時は、海外旅行のガイドブックとしては、「地球の歩き方」しか無かった時代。
     早速、ロスアンゼルス編を買って隅々までフリーマーケットを探したら、小さい情報として、ローボールと住所が出てきた。

    ロスのミラクルな1人旅

    そこで高校のアンティーク好きな友達を誘って、ロスに行こうと、ツアーに入らずロス行きの往復チケットを買って行く事に。

    ところが、その1週間前に、友達に、親の不幸があり行けない事になった。

    悩みに悩んだ末に、キャンセル料を払う位なら!と、1人でも行く事にした。

    海外旅行の経験は、友達との香港、台湾位だった。高校の同級生は、東京に飽きて海外に目を向けていた。でも憧れのヨーロッパもアメリカも高過ぎてなかなか行かない。ドルが240円前後の時代。しかも飛行機で8時間以上かかる。

    そしてロスは、東南アジアとは違い、車文化らしい。しかも1人旅。

    今でも無謀な話だと思うけど、1人でロスに行きカタコトの英語で、何とかレンタカーを借りて、そのまま高速道路に乗り、片手に地図を持って見ながら、、

    なんと!ローズボールまで行けてしまったのだ。

    奇跡に近い走り!

    しかも、日本と違って、左運転ではなく右運転。
    右車線だし、何もかも日本と反対で違う交通ルール。車優先社会だから、人なんか道に歩いていないから道も聞けない。バスも一日一本な程。
     全ての道路が広すぎて、そして交差点に信号なんかない。
    真ん中が丸くなっていて、順番で入って抜けていくパターンか、規則通りに交差点を抜けるパターン。ところが、何故かすぐ慣れてスイスイ運転出来た!(日本の道路や交通ルール程、複雑なものは無い)

    国際免許も取って、ある程度、知識は持ってたけど、20才で単独で事故も起こさず、1ヶ月、運転した。まさに奇跡!というか、毎日車に乗って、たまに首都高をグルグルしてた経験が生かされた。

    ローズボールで、カタコトの英語が通じてしまったため、ピピッときた古着やアンティークを沢山買い込んだ。日本人など誰もいなかった時代。

    次に宿探し。これもカタコトの英語で何とかなった。
     宿泊先は、リトル東京のドミトリーホテルと決めていた。
    ここに来れば日本人が多い事までは地球の歩き方で調べていた。
     しかも、アメリカでは、ハンバーガーかステーキしか外食が見つからないし、不味いし高いけど、リトル東京の中にあるヤオハンというスーパーに行けばご飯のテイクアウトが安く手に入る。
     予約までしてなかったけれど、目星を付けてたホテルは予算通り空いていた。

     今思えば、当時、こんな所に来る日本人はいないと思う。

    リトル東京との出逢い

    そこに住む?住人に色んな事を教えて貰う。

    なにせ、今でいうゲストハウスのようなもの。
    そこには長期間住み続けている日本人が何故か沢山いた。
     理由は、、

      元々、リトル東京は、アメリカの中の日本人村として栄えた街なので、元々ここに住んでいた人の祖先。

     国内の有名大学に落ちたため、海外の大学?に行ってる様に見せかける(金持ちの娘)

     なんだか怪しい仕事をしてる人(売人?)

     ビザが切れたため日本に帰れない人(仕事していた友人もこうなった人もいた)

    そんな感じの住人なので、私のアンティークを集める!という仕事はみんな興味津々で、沢山の協力を貰えた。

    フリーマーケット情報も、古着屋情報も。
    そして、現地で発行していた日本語新聞も置いてあり、そこに山ほどのガレージセール情報があった。

    家の前で売り買いするガレージセールはアメリカやヨーロッパではごく普通に行われている。

     ロスだけではなく、サンフランシスコ、サンタモニカなどカリフォルニア州を車で走る日々。
     沢山の大型の古着屋が沢山あって後々に開く大型店舗のヒントになる。
     日本で「ぽに〜て〜る」を通して知り合ったバイヤーの人達にもお世話になり、メキシコの国境では、移民、難民などで、ごった返しているので、アンティークが安く買い叩かれてると聞いては、そこまでみんなで車で行ったりと。お金が無くなれば、紹介されて日本人経営の寿司屋でバイトしたりホームステイしたり。
     オマケだけど、ラスベガスのカジノまで車で8時間もかけて遊びに行ったり。(1人10万円当てた仲間がいた)

    1週間滞在の予定が、楽し過ぎて、延長して1ヶ月滞在となる。

    まさかのバイヤーに。

    その後、アメリカで買い付けた品物を代々木のフリーマーケットで売ったり、「ぽに〜て〜る」で知り合った店のオーナーに売ったり。

    2年後、ドルが240円前後だったのに、160円台に落ちた。その頃、古着屋開業をしていて、絶好の仕入れのタイミングを得る。

     ここからが古着バブルに入る。

    思い返すと、三浦和義銃撃事件から、まさかのバイヤーとなっていた。

    バイヤーになる事を強く望んだ訳ではない。

    会社員は2度ど嫌だ!スピードと運転が好きで、好きな事を追求しただけだった。

    まだ、下北沢にも高円寺にも、古着屋は数店舗という時代で、古着に抵抗のある人達ばかりの時代背景だった。

     

    カリフォルニアにアンティークが集まる訳

    なぜカリフォルニア州に、ヨーロッパの良質なアンティークが集まっていて、それを狙ってバイヤーが来ているのか??

    そこには理由がある事を現地のバイヤーから教えて貰いました。

     それこそ100年そこそこの歴史の浅いアメリカという国は、イギリスを始めヨーロッパからの移民で成り立っている国です。

     ヨーロッパの金持ちが、戦争などを乗り越えてアメリカに持ちこんだ価値の高い品々を、生きる為にお金にしようとします。だからフリーマーケットやガレージセールも、古着屋も増えたのです。古着や中古に抵抗があるのは日本だけかもしれません。
     けれどもニューヨークなど他の地域は湿気が多い為、カビなどでダメージを受けてしまうケースが多い中、カリフォルニア州はカラッとした陽気のため、生き残ってる高価な品やアンティーク品が多いのです。
     だから、カリフォルニア州には、物もバイヤーも集まって来ているのです。

    owner 青木由美ヒストリー

    起業のきっかけ< 初代前レースクイーン>

    今、初代レースクイーン で検索すると、

    1985年ごろ、日本で初のレースクィーン誕生!
     岡本夏樹、星 杏奈

    1730338030-ThBlMzCSamL45knQcVUtZ3IA.jpg.webp

    などが ヒットするけど、実は、私は、その2年ほど前の1983年の夏の富士サーキット2輪レースで、れーすくいーん?をした。
     でも、ハイレグは着ていないですよ。
     普通の服で旗を振りました。

     それまでは男性が旗を振っていたのに、成り行きで19才だった私が旗を振ってしまっただけでなく、成り行きで、ホンダの2輪バイクのサーキットチームのメンバーに入ってしまったミラクルな話です。

    その時のライダーは、

    草刈正雄主演、映画 汚れた英雄

     のモデルともされたイケメンライダーである。

    (モデルは数人いるとされる)

    さらに、その年代を調べてみたら、ホンダが2輪レースに参戦して力を入れ始めて、結果、ホンダという会社を大きくした年代でした。

     確かに当時は、2輪バイクで速いと言えばカワサキで。車は、日産スカイラインのシャコタンが街を沢山走り、速い車と言えばエンジンが優秀な三菱ギャランやMAZDA、RX7など。
     ホンダは車でも小さなシビック位しかヒットはなく、更に言えば1番ヒットしてるのは、ホンダタクト。私も乗ってた女性にウケた原チャリだけだった。

     今更ながら、ホンダの日本のレース時代の熱い幕開けの直前に旗を振ったその、経緯を書き留めます。

     私が関わった1983年は、前年に伝説の二輪の鈴鹿耐久8時間耐久レースで、日本人がペアで優勝するという偉業を成し遂げていた。大雨で8時間を6時間レースに繰り上げるという前代未聞のレース。

    『1983年』がバイクレース好きにとって、伝説の1年なワケとは?

    ホンダとヤマハがバイクの販売でしのぎを削った時期でもあった。

     ホンダレーシングチームが発足したばかりで、どうやら伝説の一年だったようです。

    自由過ぎた学生時代

     前年の私は.YouTuber西田ひろゆき氏が通った高校とほぼ同レベルの、しかも近くの都内北区の公立高校に通っていました。
     何事も自由な校風で、校則があっても無いような高校。制服があっても私服OK、髪を染めるのも化粧もバイトを制服でしても、誰も咎める者なし。

     中学時代も周りがヤンキー時代の荒れていたお陰で、ディスコに行って夜遊びしても、どんな格好をしていても普通の子として、お咎めなしでした。 

     お陰で、友達と最先端のファッションを心ゆくまで楽しみました。

    →独立のきっかけ2<70s~80sを経験したオーナーが見るVintage>

     高校に入ると早速、原チャリ免許を取って、一番オシャレなホンダタクト(50CC) で登校しました。

     何事もスピード狂で、パトカーを追い越して捕まった事も。高3ですぐに車の免許を取り、社会人になってすぐ車に乗り、ライダーを目指してバイクの免許を取りに行く。当時の夢は大人になったら、ハーレーと、真っ赤なポルシェに乗る事。

     (結果、力が無く、小型の125ccスーパーカブと、真っ赤なベンツになった)

     私服通学OKなので、バイトを掛け持ちでして遊び回って楽しい高校生活を送っていた。バイトの数はゆうに10種類は超えたので、社会勉強にもなりました。(変わった職種では、巫子さん、エキストラなど)

     #卒業式の時に、担任に、「君は全学年生徒(約3〜400人)中、1番最低の成績と最低の出席日数だったのに、ギリギリ卒業出来たよ、おめでとう🎉」と褒められた。

     当然のように、大学へ行こうなど全く思わず。ましてや、頭を下げてまで高校から就職先を紹介して貰うなど考えも及ばなかった。
     父は個人タクシーをしていたせいか車には寛大で。大学に行かないなら、そのお金で車を買ってあげるよ、と。私は4月生まれという事もあり、すでに車の免許は持っていて友達の車も運転していた。
     そして、前の家で要らなくなった、三菱ミラージュを父が買い受け、高校卒業と同時に乗るようになった。

    1983年 社会人1年目はパワハラから

     そこで新聞広告で探した、車やバイクの部品メーカーの社員に面接に行って難なく合格した。
     なにせ、かなーり辺鄙な埼玉にも近い場所。駅から遥か遠い。誰も応募しないだろう。私は私で、広い駐車場を見て、車で通って良いですか?と条件を出したほど。

    春から入社したものの、新入社員は私と山形の本社から来た大卒の男子だけ。

    他は、偉い人順から、、、

    社長夫婦、そのお付きの夫婦、男性社員、社員の職人、私のような新人社員、パートの女性、中卒で行く当てもなく彷徨っているバイトの男の子達(部品の組み立てや力仕事で生かされる)

     ちなみに、私の人生の中で、会社員生活は、この1年だけ。希少な1年間となった。

     貰ったポジションは、営業部長の33才の独身男性の1人部下。

     嫌味ばかり言って仕事もくれないパワハラ上司。

    思った事を言ってしまう私とは相性最悪。私が泣くまで人前でやり込められる。

    言い返すとますます猛攻撃パワハラを受けてしまう。

    仕事は与えられない。仕事を見つけてやれば

    君は仕事しなくていい!足を引っ張るな!

    とまで言われる😭 ついには

    余計なことするな!いなくたっていいんだ❣️

    パワハラという言葉も無かった時代。

     何度、泣いた事か、、😭😭

    それだけではなく、女性陣.特にお局様達から3時のお茶の件で総スカンを食らう。

    お局様(中年の社員やパートの女性)が中心にお菓子などを差し入れて、お茶を全員に配る。
     ちなみに、お菓子の差し入れを最後まで一度もしなかった私。なんて奴だ😓

    それぞれが持ってきた湯呑み茶碗を2〜30人はいる男性に配るから、それぞれの湯呑みを覚えないといけないとお局様に最初に言われた。

    ところが、お茶を配ると、男性の
    「本当はいらないよ。好きな時に飲みたいし、お礼言うのも面倒」
    という声が私の心に聞こえてきた。

    男女雇用均等法なんて出来る相当前の事。

    30分はかける女性全員でのお茶出し。
    無駄以外の何ものでもない。

    そして、無駄な事が大嫌いな私は、御局様もいる場所で、こう提案した。

     「お茶は飲みたい人が飲みたい時に出せば良いのではないですか?今、お茶の機械も売ってるみたいですよ。」

    と。

     生意気にもみんなに賛同を得ようと提案したら、男性には賛成してもらえたのに、お局様から嫌われた。

    後々に理解したけれど、女性達がお茶の準備をしながらの井戸端会議をしたかった、その時間を奪う事は許されなかった。 
    今でも意味のない井戸端会議は苦手である。

     総スカンを受けたため、休み時間には、外に出て、車好きの中卒の男の子達と車やバイクの話ばかりしていた。当時は、車の部品を見ただけで車種を当てられた。帰りは首都高をルーレットして走る。暴走族ではない。大人しくハイスピードで走ってコーナーリングをギリギリで攻める、気分はレーサーだった。そして夢はレーサー。ハーレーダビットソンに乗り、真っ赤なポルシェに乗る事だった。(結果は、125CC のスーパーカブと、赤いベンツとなった)

    初めての仕事はHONDAへ。

    ある時、パワハラ上司から、ホンダ狭山に試作品を運ぶ仕事をゲットした!

     パワハラ上司や職人さんが開発した試作品。それをただ届けに行く時間が勿体無いと、こぼしていた。
     今ではバイク便があるけど、当時は無いので誰かが届けに行かねばならない。上司が届けに行くとその分、大事な開発が遅くなる。
     打ち合わせは、ホンダ担当者も忙しいので届けに行った時に出来る訳でもなく。
     打ち合わせはお互い電話で済ませたい。
     
     それでは、その仕事、私がやります!

    丁度、お茶の時間の3時頃からの仕事というのも好都合。ガソリン代も出たし、大好きな運転も出来るし、結果、給料も増えるしで、良い事ばかりの仕事にありつけた。

    パワハラ上司は、ホンダの場所は関越道を通って片道1時間の狭山工場なので事故るのではないか?と、嫌味を言ってきたけど、

    大丈夫です!と言い切った。
    (カワサキやマツダなどにも行った筈だけど全く記憶にない)

     行く時は、基本、その会社の車で行くのがマナーだ。
    が、ある時ホンダのシビックなど出払ってた。

    そんな時は、別のメーカーの車で行っても大丈夫。
    というのも聞いていた。だから私の車で行く。(かなり重宝された)

    だけど、ホンダ狭山の広大な駐車場に着くと、ホンダ車ばかりで、私の三菱ミラージュは浮く。

    そんな時、いつもホンダの敷地の周りの道路の端に車を置いた。

    その日もギリギリで車を幅寄せしようとした。

    幅寄せはコーナーリングとともに、得意分野なはずだった、、

    突然、、とんでもないアクシデントが起きた❣️

    車の右後輪が溝に ドスン!!と、落ちたのだ❣️

    スマホも無い時代。周りを見回しても公衆電話も無さそうだ。
    会社に助け船を出す事もできない。

    JAFを呼んでも良いけど時間がかかるし、そもそも電話が無い😓

    そして、約束の届ける時間、4時が目の前だ。

    そこで、まずは試作品を届ける事にした。

    いつものように担当者に試作品を手渡した後、、
    ダメ元で、勇気を振り絞ってお願いした。

    すみません、車が溝に落ちてしまったので、JAFを呼びたいのですが、電話をお借り出来ますか❓

    と。。

    電話代、お支払いします、
    とまで言った覚えもある。

     他に方法は見つからなかった。

    すると、、担当者が、あっという間に男性を集めて、

    私の車に案内するように言われ、5人位かけて、ジャッキを使って、溝から生還してくれた。

    その光景は、なんだか奇妙だった。
    みんなホンダのユニフォームを身につけてるのに、三菱ミラージュを助けてくれたのだ。

    そして、次からは堂々と広い駐車場に止めなさい!

    と、なんだか、みんなに笑われた記憶もある。

    会社に帰り、パワハラ上司に報告したけど、さらに怒りを買っただけ。

     何でそんな所に置いたんだ⁉️と。

    私は落ち込んだ😓😓😓

     ロッカーで泣いた覚えが蘇る。

    2度と試作品運びの仕事は来ないかもしれない。と。なにせ、大丈夫です!と啖呵を切って自ら志願した仕事なのだ。
     ホンダに失礼な事をした。それによって仕事が来なくなったら⁉️と震え上がった。

    突然のHONDAチーム入り

    ところが❣️1週間程たった後、、

    ホンダから、

    次の二輪レースに来ないか?と、パワハラ上司ともども、私も名指しで呼ばれたのだ。

    パワハラ上司が、それを受けてビックリ‼️

    周りもビックリ‼️

    日曜なので、じゃあその分の給料が出るかといえば、出ない。
     でも、ジャッキで助けてくれたのに断るのは失礼だ。

     周りにも入りたくたって入れないレースチームなんだ❣️と言われ、ただならぬ凄い機会を感じた私は、無償でも行く事にした。

     と、いうか私に断る権利はなかった😢

    そして、二輪レースのHONDAチームに加わる事となった。

     ホンダのチーム担当者がうちの会社に来る回数も増えた。ジャッキで助けてくれた人もいて、その度にお礼を言った。

    その中で解ったのは、私が持ち込んだ試作品のアンダーカバーという部品がレースで使われる事になったらしい。

    だから、パワハラ上司他数人の上司と、何故か私が呼ばれた。どうやら、ジャッキ事件が社内で評判になり、ウケたらしい。もしかしたら、ホンダもその貸しがあるから、私達は断らない、と思って声をかけたのかもしれない。

     1983年の鈴鹿8時間耐久レースに参戦するための予備レースで、富士スピードウエイに大きな車に乗りみんなで行く事になった。

    もうパワハラ上司は私をみんなの前で虐めることをしなくなっていた。
    相変わらず女性一同からは嫌われてはいたが。

    富士に行く日曜の当日、待ち合わせの場所から、何か嫌な予感がした。

    汚れた英雄と旗振り

    もしや、、女性は私1人⁉️

    到着して、与えられたホンダチームの部屋に入ると、作業服だらけの男性達と、汗と油の匂いの部屋の中で、スカートを吐いていた私は、ただ来た事にさえ後悔していた。

    場違い・・・

     しばらくして、ワンピースを着ている女性が部屋に入って来てホッとした❣️
     ホッとしたのも束の間。
     自分と違う絶世の色気パーフェクトな大人の美女で驚愕した。

    が、、その隣に、これまた絶世のイケメンがいた。

    本日の750ccに乗るライダーだった。

    後に知ったけど、草刈正雄主演の映画、汚れた英雄のモデルと言われた男だった。(モデルは何人かいるが、外見的にはこのライターだ)

    ここまでのイケメンと美女の度数は、人生の中で1番だと思う。草刈正雄よりオーラがあった。

    レースに備えて、みんなそれぞれの部門で準備をする。ジャッキをあげて1つ1つボルトの締まりを確認して、エンジンも何度もチェックする。

     優勝を目指しているし、何よりも命がかかってるレースならではの緊迫感。

     物凄い情熱❤️‍🔥がビシビシ伝わってくる。

     私は何度も手伝おうとしたけど、やっぱり邪魔なだけだった。

    それこそ、あれ程嫌がってたお茶汲みさえしようとしたが邪魔なだけ。そんなの自分でやるよ、と😭

    そのあと、その部屋からみんな出るよう指示された。

    部屋に残るのは、イケメンレーサーと美女だけ。

    誰かが、

    最後の別れになるかもしれないからね、、
    と言った。

    そう、命を落とすかもしれないのだ。
    ギリギリのコーナーを責めなければ勝利が無い。

    ローで入って徐々にスピードを上げる事をコーナーを攻めるというのだが、そのさじ加減でバイクだから体が吹っ飛ぶ。

    多分、抱き合って最後の別れになるかもしれない時間を過ごしているのだ。

    ふと、我に返った。

    私は仕事らしき仕事をしていないじゃないか?

    命をかけた情熱的な仕事

    同性を見つけたは良いが、彼女はレーサーの心の拠り所になっている。
    私は何をしたのか?何もしてないよね?と。

    ましてや主役のライダーはこれから命を落とすやもしれないのだ。

    そこで、私は、言った。

    何かお手伝い出来る事はありませんか❓と。

    すると、、、

    ここに旗があるから、コレでも振ってみる?
    いつも男性がやるけど。旗振り仕事なら、誰がやっても同じ、バイクのメンテナンスより命に関わらないからね、でも、凄く重いよ⁉️

    重くても私やります❣️

    そして、私はバイクが来るたびに旗を無我夢中で振りました。それこそ情熱をかけて。

    確かに大きくて重かったけど。

    MotoGPを楽しむ上で欠かせないフラッグの意味を解説 そしてそのフラッグでレース展開はどうなるの? | モトコブログ

    *イメージ画像を探したけど、これしか見つからず。当時は危険を顧みず、バイクが走り抜けるたびに、重い旗を振ったのです。

     

    レースクイーンという名前が、暫くしてから聞くようになった。

    で調べても

    1960年代後半に小川ローザらがサーキットでモデルとして活躍したのが起源といわれている[1]。以後その形態にあまり変化はなく、開会式や表彰式のアシスタントとして従事する程度であったが、1984年に開催された日本最高峰のオートバイ耐久レース「鈴鹿8時間耐久ロードレース」で、一部チームのキャンペーンガールがチーム名のロゴマークを入れた水着を着て応援し、話題となった。

    やはり、早くても1984年に、レースクイーンという言葉が出たようです。私は1983年の6月頃にやりました。

    私はハイレグ水着ではありません。

    普通の服で旗を振って応援しました🤗

    その後も、チームの飲み会も何度も参加した。
    あの美女が経営するスナックは家から近かった。イケメンレーサーも現れるがあまりのオーラの為、会話も出来ず・・

    棚からぼた餅の年に

     その年は東京ディズニーランドがオープンした年。ホンダの社員さんも加わってみんなで行った。(パワハラ上司もいた)

    でもレースのチームに私が参加したのは、あの時一度だけ。
    鈴鹿は泊まりがけだし、流石に私を連れて行く訳にはいかなかったのでしょう。
     今なら、部品のメーカー社員がチームホンダに入って手伝うなんて話は無い事だけど、当時のホンダは本格的にレースに参戦するかしないか?の直前で予算も含めて紆余曲折の時期だったのだろうと思う。ただ、車やバイク好きな人にお呼びがかかった。そんな時代だった。

    富士に連れて行って貰ったのは、近くて1日の日帰りだし、合格した部品の開発部門のアシスタントとして声がかかったのもあったのでしょう。私が持ち込んだアンダーカバーが採用されたので縁起担ぎのような。
     でも結果、レースの順位も良くなかったし、何も出来ませんでしたが😓

     ただ、会社のポジションも上がり給料も上がってボーナスも特別に頂けた、棚から牡丹餅のような1年間でした。
     やったのは、、試作品運びと旗振りだけだったけど😅

    あのとき、パワハラ上司と喧嘩したり、3時のお茶汲みに批判しなければ、そういうコースは無かったなあ、と思います。

     そして、あの時のホンダチームと、絶世の美女とライダーの衝撃的な出会いは、私の人生を大きく変えた一コマでした。

     その後、ホンダは世界を目指して活躍していくのですから、その先駆けのパワーを頂けたのです。

     情熱と命をかけて成し遂げる仕事がある事に魅せられました

     起業して自分で仕事を始めるキッカケになった、一つの出来事でした。

      また、車を運転出来た事はその後もかなり仕事に生かせました。

    とりあえずライダーを目指す

     上司のパワハラは、しばらくすると又始まり、お茶の時間は相変わらず。

     ただ、いるだけで給料が貰える、サボってばかり、会社の愚痴ばかり、人の陰口ばかりの会社勤めに嫌気がさし、、

     そこで、750ccライダーを目指して会社を辞めました。

     まずは大型のバイク免許を取りに行きました。

     あれほど練習していったのに、、教習所で倒れた750ccバイクを起こせず(涙

     教官は笑いながら、小型免許から取るように!と。

     結果、小型免許まで取ってカブというバイクまで乗りましたが、、あまりの力の無さでライダーへの夢は諦めました 笑

    owner 青木由美ヒストリー

    →起業のきっかけ<70s~80sを経験したオーナーが見るVintage>

    70s~80sを経験したオーナーが見るVintage

    オーナー:青木由美(1964年生まれ) 

    私が体感したファッションの世界

    初めまして!オーナーの青木です☆ 

    yumi-Vintage

    私の若い頃(70~80年代)は黄金のファッション期でした

    東京で生まれ育った私は、世界で最初のスタイルやブランドの大流行を丁度、中学・高校の時に目の前で経験しました。

     私は髪の色もスカートの長さも自由な高校に通っていて、お洒落を楽しみました。

    JJ

    *1980年 ファッション誌 JJ(ジェイジェイ)

    お洒落に貪欲な私達は、バイト代が入ればJJなどのファッション雑誌で見た新しいアイテムを友達より先にゲットしたい! 流行の色やスタイルに乗り遅れたくない!!と

    流行前のスタイルを自分で作ったり、新しいブランドを探していました

     ミニボストンバッグは私達が流行らせたんじゃないかな、、って今でも思います^^

     当時はシャネルはまだ日本に来ていません。エルメスはかなりハイレベルなので、可愛くて細部のディティールが優れていたGucciが人気!他にセリーヌも!

     みんなお洒落に敏感でした。髪型は聖子ちゃんカットでしたが(笑

     現在はその頃のスタイルの繰り返しやアレンジばかりで、その頃を懐かしく思うこともあります。

    そして・・80年代初期”ニュートラ”によるブランドブーム到来!

    ワンピースにブレザーなどのお嬢様風スタイルに、エルメスやグッチなどの海外ハイブランドアイテムを組み合わせたスタイルが大流行しました

    ニュートラは、実はブランドブームの仕掛け人なんです

    anan

     1995年発売an・anの雑誌でも、再びニュートラブームが繰り返されいますが、今見ても飽きのこない大人のエレガントな上品スタイルですよね。

     原宿では、ロックンロール(50s)を踊っていた子達も、60s、70sのツイギーや、オードリーヘップバーンに憧れて、ピエールカルダンなどのブランドやレトロな古着文化も始まっていました。

     海外ブランドに触発されて、日本のブランド(DCブランド)ブームも始まりました。コムデギャルソン、Y‘s などカラス族。ピンクハウスなどロリータ、、乙女族・・(ボディコン。そしてお立ち台は品がないのでファッション文化から除外します笑)

    Antiqueとの出会い

    高校2年〜20歳頃まで、近所のイギリス・アンティクカフェ「カフェルモンド」でアルバイトしました。

     当時としては、本格的なアンティクカフェ(夜はバー)は珍しく(ましてや板橋区)マスターとママさんは、新婚旅行でイギリスから大量にアンティク家具と,当時にしては珍しい100万円もしたエスプレッソコーヒーのマシーンを日本に持ってきて、細部にまでこだわった小洒落た店造りをしました。

     その時にマスターより直々にアンティークのイロハを教わりました。代々木のフリーマーケットにも連れて行って貰って買い方のコツまで教えて貰いました。

     この頃から早いだけのトレンドだけでなく、古き良き物に惹かれ、自分なりのファッションや希少価値の上がる逸品ものに目覚めました。

     その10年後ほど、店を廃業する時にマスターが集中して集めた玩具のコレクションは、望まれた通り、「なんでも鑑定団」の北原 照久氏の元へ渡りました。北原 照久氏は何度も来てマスターに譲ってくれるよう頼み込んでいたのです。

    Vintageとの出会い

     本当は高校の友達と2人で行くはずだった「アメリカ・ロスアンゼルス」。

    目的はロスのローズボールというフリーマーケットに行く事。今では1番有名なマーケットですが、当時はみんな知らなかった「ローズボール」を何故、私が知ったかというと、ミラクルな話なので、また別ページで。⇩

    <そして私はバイヤーになった!?>

      そのアメリカ行き。直前で友達が体調を崩し、悩んだ挙句、1人で行く事を決意。

     そしていきなり空港からレンタカーに乗って素早く高速道を走ってそのまま目的のフリーマーケット、ローズボールに偶然、行けたため仕入れ先を確保。

    買付け三昧の楽しい日々を送りました。全てが車を運転できた為と人の繋がりと、ミラクルに恵まれました。

    自分で運転して訪れたローズボールフリーマーケットや、おしゃれな西海岸の古着屋。そこには、自分が知らない50年代から70年代のアメリカの豊かで贅沢な時代のファッションがありました。ひとつひとつが巨大な市場の中で、宝探しのように見つけたヴィンテージアイテムには独自のストーリーとエネルギーが宿っていて、心を打たれました。

     そこからは、海外で仕入れた品物を、ぽに〜て〜るで知り合った店主に卸すというバイヤー業が自分の仕事になっていきます

     そして海外では、古着やVintageという文化が当たり前のように根付いて存在している事に、気づきます。

     アメリカ、そしてヨーロッパでは、お洒落な人ほど、古い物を愛しているんです。

     特にヨーロッパでは歴史を重んじている国なので、古ければ古いほど、車もお高いし、泊まるホテル代も、、新築より格段に高い。 歴史は重いのです。

    1337年建設の由緒ある宮殿内の、GucciMuseo ↓

    kizou-4

    *Rococoのお品はMuseoに寄贈されております→詳細

    古着屋経営

    原宿の隣の下北沢に 自分で古着ショップを持ったのは、その翌年・・1987年。

    Vintage文化に目覚めた私は自分だけの1点物を見つけるお店を開きました。

     その後、流行に乗るように、DCブランドもアメカジ(アメリカンカジュアル)も森ガールな店も展開してきましたが、、

    SENKEN

    2002s繊研新聞

    目まぐるしく変わる流行を目の前で見てきて、原点に戻りました。

    年を重ねて、色々なファッションを楽しんできて最終的に変わらず好きだったのが・・・Vintage

    中でもヨーロッパのハイブランドのVintage品は上質な素材、風合いを持ち合わせています。 そんなアイテムのみを厳選に厳選を重ねて取り扱っていくお店を開きました

    大人の為のVintageファッション

     今、ユニクロなどファーストファッションを上手に取り入れたファッションが主流なので、楽をしたい時に私も取り入れていますが・・

    私達の年代って、安っぽくは見られたくないじゃないですか・・

     お気に入りのブランドをさりげなく、上手に取り入れるのが大人のセンス。

     シンプルな中にも1点豪華主義って、カッコいいですよね☆

     しかも・・今、お店で売っていない Vintageという廃盤品なら、友達と被る事もありませんね。

    オールドグッチの選び方<動画でも学べる!3つのチェックポイント>

    そして・・オールドグッチやオールドシャネルを持って、Gucci,Chanelに行くと、、、店員さんに絶賛されるんですよ☆(店員さんも こんなステキなバッグは見た事がない、、とよく言われます)

     これからの大人の女性は、是非、1つ1つお宝を手にいれていって大切にされてください。

     自分への頑張ったご褒美に自分でプレゼントしちゃいましょう~☆

    そして・・娘の代まで 受け継ぎましょうニコニコ 

    娘⇩

    プロフィール&20代の私が考えるVintage

    トレンドもどこまで取り入れたらいいのか・・?

    悩みは尽きません。

    ですが、ここはVintage! 一点豪華主義がオシャレで品のある女性になれるんです 

    ファッションの流行は、繰り返されていて何が今の流行か解らない時代ですが、、

    飽きのこない一生ものをこれからは手に入れて大事にしませんか?

     選ぶセンスと組み合わせで勝負するのが、Vintage!

    ファストファッションでも、質感や季節感にこだわってコーディネートをして、

    バッグやアクセサリーなどに、ハイブランドのVintage Bagを使うのが、現代風。

    世界で認められている、Gucci,CHANEL,HERMES,CELINEなど、当店で取り扱っているブランドなら間違い無し!

    大人の女性はさりげなくブランドを身につけています。

     何を買ったらいいか、何が自分に似合うか解らない方は遠慮なく、ロココまでご相談ください。

     遠くてロココまでご来店が出来ない方でも、遠慮なくご相談くださいませ。

     そして、1人ても多くのお客様に、ビンテージの魅力をお伝えして今まで以上の輝くお洒落を体験して頂けたらと願っております。

     

    オールドグッチ

    owner 青木由美ヒストリー

    VintageShopRococoを始めた理由

    プロフィール

    GUCCI日本上陸の年。東京生まれ 

    子供は女男2人(モデルでたまーに出てマス^^)孫1人

    yumi-mini

     粗雑な大量生産品が出回り始めた80年代・・

    オシャレは好きだけど・・やっぱり人と同じは嫌だ!!

    新しい物がいい!ピカピカがいい!はそろそろ卒業しよう!

    と古着に目覚めました。20歳の時。

     中学・高校と自由すぎる校風だったためか、好きなファッションをとことんまで

     日本に古着屋がほとんどない時代の80年代初め、、

    都内ファッションの中心地、下北沢~高円寺などに DCブランド~USA古着店舗運営を始めたのが22歳の時。古着バブルの直前からでした。

     私がセレクトした個性的な古着は飛ぶように売れて・・目の前を商品とお客様が流れてゆきました。。

     延べ3万人の方に、たくさんのスタイリストをさせて頂きましたm(_ _ )m

    が・・ビックリマーク

     お店も大きくなって、商品も増えると右から左にお客様も商品もただ漠然と流れる日々になってしまいました。大変な思いをして仕入れた選びに選んだ大切な子が、今、どこでどうしているのか解らないしょぼん

     もっと、、お客様一人一人に大切に丁寧に売りたい!

     そして・・古い物の中でも、もっとレアで良質な物を取り扱いたい!

    そんな時に出会ったのが、ヨーロッパの蚤の市。フランスのクリニアンクールやイギリスのカムデンロックマーケット。そして、Vintageショップという存在です。

    IMG_0200IMG_1041

     そこでは、何十年も前に職人さんの手で丁寧に作られた、新品にはないデザインの、ブランドのバッグや雑貨が並んでいました。 年を重ねる毎に味わいが増す上質な素材感。

     そして、人々に愛され大切にされながら、次の世代に受け渡されています。

    IMG_0223

     ヨーロッパの人達は、歴史を大切にしていて、建物も車もドレスも、古い物に価値を見出して生活を営んでいます。

    IMG_1277

     ヨーロッパを旅行すると、新築のホテルより古びたブロカントな建物の方が高い宿泊費なのは、そのためです。

     RococoのようなVintageショップも沢山立ち並び、セレブな人たちは競って1点ものを求めVintageショップでお買物をします。

     時が経過しても、使い込む程に味が出る。

     一点一点、職人さんの手で丁寧に作られたVintage。

    banana

     特にブランド品は、選び抜かれた高級素材を使っていますし、今でもそのブランドでメンテナンスが受けられます。

     歴史と伝統とクオリティが高いレアなヨーロッパブランドVintage品を希少品だという事を理解してくれる人に丁寧に販売したい!!

      得意なオールドグッチはどこよりも良質な物を集めたい!!

    とスタートしたのがRococoです。

     選びに選んでいるので、珍しい子は・・↓

    kizou-4

     GucciMUSEO(グッチ博物館)にRococoのコレクションが寄贈されました!⇒Click!!

      けれども・・・

    como-yumi

    レアなアイテムは、手に入れる方が大変なんです・・・

     だから、今は高円寺の片隅の小さな隠れ家的な店舗です。

     けれどもネットショップに力を入れて、世界中のお客様へ一人ひとり・・丁寧な対応を目指して営業しております。

    佐々木 希さん来店

     

    是非、お気軽に遊びにいらしてくださいねニコニコ

    心よりお待ちしておりますm(_ _ )m 予約くださいませ☆

    趣味

    旅行・お風呂で読書と映画を見る事

    バッグをピカピカにする事☆→バッグの修理・お手入れ情報 執筆中! 

    そして・・今のマイブームはヨガとダンス

    Translate »
    Verified by MonsterInsights