<ぽに〜て〜ると華やかな誤算>私がドラマ化?
日本で初めての、売ります買います情報誌「ぽに〜て〜る」という雑誌に関わった。
ヤフオクもメルカリも無かった、1984年頃の事。
本屋か古着屋で見つけた「ぽに〜て〜る」
フリーマーケット情報も掲載されていたので、200円で買ってみたけど、その雑誌は雑誌ともいえない不完全さだった。
誤字脱字だらけ。変集長と書いてあったり、売ります情報に人間があったりゴリラが載ってたり
高円寺との出逢い
とにかく笑えるオンパレード!
奇妙すぎる情報誌で、オカルト雑誌「ムー」や星新一SF小説好きだった私は、バイト募集に引っかかり、高円寺という行った事もない未知な街に面接に行く事になった。
面接に行ったら、小さな木造のアパートの1DK程の6畳の1室で、自宅兼事務所は物で溢れ返っていて汚な過ぎた。
出迎えた社長は30才程のムサ苦しいボサボサヘアのバンドマン(世はバンドブームに入る少し前)。
玄関から先は足の踏み場の無い程散らかっていて部屋に入る事も出来ず。
社長は、申し訳なさそうに、会った時から最後まで何か探し物をしていた。
探し物を探している途中で、また探し物が増えるというループ状態に陥っていた。
唯一の社員?であった奥さんは、双子を産んで1人が死産で入院中で大変な時だと聞かされた。
車に乗って来ている私を見るなり、配本という仕事があると説明をする。
私はその汚い部屋から脱出したい一心で、説明を受けた本屋や古着屋の配本に、その場で志願すると、喜ばれてそのまま仕事に入った。
だから合格とか不合格という問題でもなく、面接しに来たのは後にも先にも、、私1人だけ。
当時、髪型をポニーテールをしていた私は不合格になる理由もなく採用された。笑
また車を持っていたから、というのは会社員時代とパターンが同じ。
ただ、パワハラされ、嫌味を言われるばかりの会社員時代とは正反対で、何をやっても感謝された。
起業のきっかけ<初代前レースクイーン?>
あっという間に配本をしたら、、
ついでにと、売り上げを回収したら、ついでに、、がどんどん増えていった。
遂に古着屋の取材をしたり、挙句に広告も取ってきた。
広告といっても、割と大きい枠が5000円ほどと破格値。通称10万部発行!と書いてはあったけど、実際には千冊程だった事は後ほど知る。
暫くすると、事務所兼自宅に奥さんと赤ちゃんが帰って来た。双子の1人の女の子が死産だったという割に、優しくて明るくて朗らかで美しい方で私の3歳ほど年上で、お姉さんが出来たようで嬉しかった。
奥さんが版下作りをしてる間に、皿洗いをしたり、赤ちゃんの子守もして、ついでにが増えてゆき、、、
ついには、編集作業もした。
基本、売ります書います情報誌なので、ハガキで来た情報をまとめれば良いのだが、合間に私達が文章を挟む。
でも、ありきたりの文章だと社長がすかさず、
ゆみちゃん!ソレおもしろくない!
と、偉そうに却下する。
そこから、たった1行を作る為に、そこにいるみんなで頭を捻る。面白くなるまで文章を考えさせられる。
締切に追われているのに。
皿洗いまで私はしているのに、、
社長は、偉そうに却下する。
音楽もそうだけど、割とどうでも良い所にこだわる、それが社長の奇才なんだ、と誰かに言われ、妙に納得していた幼かった私
でも、面白くなるまで、みんなで頭を捻るので、どんどん面白い1行になっていき、たった1行のために1時間はかけて大笑いして、挙句に元のネタはどこだったのか?不明になって使えなくなったり
そして、版下作成。
当時はパソコンも無かったので、1文字1文字を探して打つ写植の時代。締切ギリギリを争うので、そこでも私の車は役に立つ。
車で中野の写植屋まで行ったら、演劇ブックという雑誌の配本まで、社長の坂本さんに頼まれる。どうやらそこにも借金をしていたらしい。
だから誤字脱字も当たり前なのだ、と、関わって初めて知る。
そしてお金はいつも火の車で、実際、お金が無いからミルクも買えない、と夫婦で明るくこぼしていた。
だけど、夫婦は明るく、優雅に友達を呼び、その友達は必ず酒とツマミを持ってくるから、仕事はいつもはかどらない。ミルク代も友達に借りていた。
けれどもみんなで飲みながら楽しく制作していた。
人生はジェットコースター
社長は吉祥寺の曼荼羅という今でも伝説を誇るライブハウスで、定期的にボーカルをやっていて、そのファンの男性もよく遊びに来ていた。
その男性は「Mr.バイク」の編集者で、バイク大好きだった私は話も合い、ついにネタがなくてページが埋まらないからと泣き言を言われ・・・
まんまと乗せられて、2ページにも渡って私が掲載される。
タイトルは「人生はギャンブルだ!」か、「人生はジェットコースター」だったと思う。見開きで、顔写真アップとインタビュー記事。
そこで何を語っているのかも今更、怖いもの見たさで見てみたいけど、確かに、私の人生はず〜っと山あり谷アリ、行き当たりバッタリ。ジェットコースターのようで、それでも、有難い事に、人や運には恵まれたのかな?と思う。
他にも、西荻窪のアーバンアンティークスというアンティークショップで働いている、マルコさんという美女も私のようにお手伝いしていて何回か遊びに来て編集の手伝いをしていたり。
でも、最後には消えていたけど 笑
(どこかにいたら会いたいです)
だから、雑誌の中では、色んな人が面白く登場するのだ、と作成してみて初めて理解した。
卵が先か?ニワトリが先か?
「ぽに〜て〜る」の社長に、どんな系統のバンドなのか?ロックなのか?などと聞くと、いつも頭を思い切り振って、ロックでもない!フォークでもない、これは新しい音楽なのだ!と説明を受ける。
元々新しもの好きに加えて、高円寺の住人になってからか?よく分からないけど、ますます新しもの好きに囲まれ始めた私は妙に納得していた。
でも、どんなに凄い音楽でも、生活できない。そして雑誌も大赤字になっていた。バンドを続けるために「ぽに〜て〜る」を作り始めたのに、今ではそれが足枷となりバンドもままならない。
よく私達に説教されて追い詰められると社長は、
俺は「ぽに〜て〜る」を作りたくて作ってる訳じゃないんだ。本当はミュージシャンなんだよ。だけど、最初はそれだけだと食えないから「ぽに〜て〜る」を始めたんだ。でも「ぽに〜て〜る」も赤字になった、、
そんな社長の泣き言とも言い分とも言い訳とも取れる発言から、
卵が先か鶏が先か問題って知ってる?ゆみちゃん。
と、
卵(バンド)が先か?ニワトリ「ぽに〜て〜る」が先か?問題で、よくみんなで討論した。
討論というより、社長に、はぐらかされて終わる。
#今でも解らない。趣味の為の労働なのか?労働するから趣味が必要なのか?
TBSがその話を聞きつけ、ドラマ化したいと取材を受け、脚本を書いてる最中だった。
ベンチャー起業という言葉が世に出始めた頃で、若者が起業する姿を描きたかったらしい。
社長は、100万はある借金や、未払いの私の給料を、ドラマ化される事で、返せると希望を明るく語る。
テレビでドラマ化されても、モデル料も何も出ないと知っても、「ぽに〜て〜る」の雑誌は宣伝してくれるというので、きっと売れるようになるそしたら、未払いの給料を支払える
と豪語した。
けれども、私はその時、給料が未払いのままになるのは覚悟していた。
なにせ、国民金融公庫からの100万円の借入だけでなく、沢山の友人からの借金も抱えていて借金取りも毎日のように来ていた。当然のように家賃も滞納が当たり前。
私への支払いが先に、なんてあり得ない。
それよりも、雑誌を通して次々に出来る友達や人脈が大きく広がっていた。
ぽに〜て〜るに入って、すぐに行ったアメリカでは、バイヤーの人達が、ぽに〜て〜るを知っていた為、名刺代わりになってしまったし。
起業のきっかけ<日本初?の古着バイヤーになった日
あんな奇妙な雑誌はどんな所から生まれてくるのか?私を見て納得する人はいなかったと思うけど、みんな興味津々だった。
その中に、2年後に結婚する人もいたし。
何よりも、最初のお店を紹介してくれた今でもお付き合いのある友達もいた。
そして古着屋店主はみんな情報に飢えてたし、横の繋がりを求めていて売上アップの方法に悩んでいた。
「ぽに〜て〜る」は、古着屋経営者やバイヤーの、1つの横の繋がりの唯一無二の雑誌だった。インターネットもパソコンも何も無い時代である。
私は生意気にも、店主に相談されれば売上アップの方法を一緒に本気で考えてアドバイスもしていた。
それほ、ファッションを楽しむ特に女性の目線からのアドバイスだったり、アメリカでの沢山の古着店を実際見てきた経験からきていた。
当時は、まだ女性が楽しめるオシャレな古着屋が無いに等しかった。古着屋イコール入るのが恥ずかしい、そんな雰囲気を一掃したかった。
でも、それが後に古着屋を自分でやる時に役に立つとも思わなかった。
また、その中に五千円の広告取りを織り交ぜたので、難なく広告が取れた。
フリーマーケット主催
ある時、キリンビールから直々にフリーマーケット開催主催の案件が舞いこむ。
新宿に高島屋が建築される直前の広い空き地で、キリンビールが夏の期間だけビアガーデンのドームを立てて大々的に開催するというイベント。
その横の空き地でフリーマーケットをしたいという、その主催を依頼された。100万円出すと言う。
借金取りに追われていた社長はその話にすぐに飛びついて、私と奥さんに何も相談なく独断で契約をした。
だけど、社長は雑誌作りとバンドでそんな時間も無い。
それよりも、要領が悪すぎる社長はいつも探し物と、友達を呼んでの飲み会で忙しかった。
私と奥さんがいくら説教しても、卵が先か鶏が先か問題などで、いつもはぐらかされる
だから、フリーマーケット主催の矛先は、やはり私に矢が当たる。
ゆみちゃん、やってくれないかな、、
逆に言えば私しかいなかった。
仲良くなった奥さんには生まれたばかりの赤ちゃんがいる。
その時の私は、アメリカのバイヤー仲間や、代々木のフリーマーケット仲間があり、出店したい人は大勢いた。
あっという間に10人程、集めた。
その中に1年後に結婚した夫もいた。
アメリカでのバイヤー仲間もいた。
真夏の炎天下の中、出店料千円ほどで3日程開催したけど、明治通りから奥まった場所だったからか、買う人は集まらず結局、出店料は無料にした。
みんな、ビアホールを横目にキリンビールを飲んで終わった
買う人はゼロに近く、仲間内で売買したり
場所代も無料にしたからか?笑って終わりになって良かった
それでも私は懸命にチラシ配りをした記憶がある。
キリンビールとしては、フリーマーケットというイベントを100万で私達に丸投げ状態なので、売れようが売れないだろうか、どうでも良かった。
ビアホールでキリンビールを宣伝するのがメインなのだから。
華やかな誤算
翌年、TBSでドラマ化されたタイトルは
サラリーマンが意を気してベンチャー起業をしたものの結局、倒産してしまうドラマ。
今では、脱サラとか、ベンチャーとか、フリーランスの人は珍しくないけど若者が起業する、というのは珍しい時代であった。
当時は高校か大学を卒業したら、何処かの正社員になる、そうでなければ夜間学校にでも通って何か手に職を付けたり資格を取って、それでも正社員を目標に頑張るしか人生の価値観が見出せない時代。ホリエモンなどが登場する10年以上前の時代。
*ホリエモン曰く、1997年の自分が卒業(中退)した年、東大生でも起業したのは自分を入れて3人だけという時代。その10年以上前の話。
制作途中でシナリオ作者が病気のため変わったという経緯もあり、「ぽに〜て〜る」同様、波瀾万丈なドラマになった。
挙句、翌年自殺した古尾谷雅人主演。
そして、、私の役をやったのは、、あの、、
戸川純
<役所>パフォーマーとして特異な才能を持ち、ミュージシャンを目指して上京して来たが挫折、全子の店で働くうちに再び音楽活動に本気で取り組むようになる。
検索したら動画が出て来た!
しかも1話の最初から主役並に
アメリカ、フリーマーケット、イベント、そして雑誌ぽに〜て〜るという台詞は、まさに私
そして戸川純がフリーマーケットで着物を着て踊り狂って、雑誌「ぽに〜て〜る」を宣伝して売る役所!
(当時の私は見逃したので、この先、戸川純がどんな展開になるのか不明)
絶対に私は戸川純のキャラじゃないのに、製作者の目にはそう見えたらしい
ドラマは、ヒットする事もなく、、
その前に「ぽに〜て〜る」は倒産していたさ
まさしく「華やかな誤算」だった
そして、ぽに〜て〜るは倒産した
キリンビールから受け取った100万など、あっという間に、友達への借金返済で無くなって、私は1円も受け取らなかった。
それほど周りにお金を借りていて縁を切られていた、ちょっと可哀想な社長であった。
じゃあ、高円寺で1人暮らしの私が何で生活していたかといえば、、
バイヤー業とフリーマーケットと、そして、広告にお金を出してくれるスポンサーのアルバイトだった。
ダイヤモンドを売る仕事に奥さんと行ったり、今も残る、オイシックスという有機栽培にこだわる 初期の会社に働きに行ったり。代官山の小洒落た一戸建で作業をした記憶。
人がいなくてお願いされて行くので短期の割に待遇も時給も良かった。
けれども、ついに国民金融公庫に返済出来なくなる日がきた、、
宝島社が、ぽに〜て〜るを??
「ぽに〜て〜る」は、私が入った一年後に倒産した。
なんとなく予想はしていたので、ビックリはしない。
年中、借金取りが押し寄せてきていて、その度に居留守を使ったり、笑って誤魔化したり、挙句、雑誌のネタにもしていた明る過ぎる社長夫婦であった。
社長は50万ほどの給料が未払いという事を40年近くたった今でも気にしているけど、「ぽに〜て〜る」での人脈がなかったらバイヤーも古着屋も経営していなかったかったと思う。
アメリカのバイヤーにも雑誌が有名になっていたから、ニックネームでたまに出てくる私がどんな人物なのか?と興味を持たれたし
いよいよ倒産となった時、、
なんと当時、若者に人気の、オタク、サブカル雑誌「宝島社」が、「ぽに〜て〜る」を買ってくれるという夢のような奇跡のような有難い申し出があった。
こんなに面白い雑誌をなくすのは勿体ない、と。
『
*宝島は、宝島社から発行されていた看板雑誌。 1973年7月10日に晶文社より『WonderLand』として創刊。1970年代のサブカル文化の一翼を担った。休刊に至るまでに何度もの雑誌自体のコンセプトの変更を経た。刊行期間: 1973年7月10日 – 2015年8月25日
買ってくれる、といっても最後に検討した結果、お金は一銭も出せない、と言われる。けれど、自分たちは借金を負って倒産するけれど、名前だけでも残せるなら!という社長夫婦の願いでもあった
ちなみに、現在、この社長夫婦は、荒波を乗り越えて、ハンバーガーショップを経営している。
社長と当時、子守をしたみほちゃん
私が宝島に??
倒産が決まってしばらくして、社長夫婦から、提案された。
私が宝島に行き、「ぽに〜て〜る」の編集長となる事を。
社長夫婦は倒産(破産)したので、宝島に行けないのだ。
なので矢は私にしか当たらない。
宝島からの要望である。
編集者ではない、編集長だ。
しかも正社員だという。
今でいうとM&A。起業合併?いや吸収?
断っても構わないとも社長に言われたけれど。
確かに「ぽに〜て〜る」を宝島で出版するのに、今までの関係者が1人もいないというのは、絵にならない
最初から編集長として、まずまずの給料も提示された。最初は少ないかもしれないけど部下もつける、とも言われた。
だけども、、私があの宝島に
まさかの、、またもやの棚ぼた事件だ。
ホンダサーキットチームに入ってレースクイーンをした、棚ぼた事件を思い出す。
書くのは、この通り嫌いじゃない。
幼少期の夢は小説家だった。
悩んだ
私に編集長など務まるものだろうか?
考えた事もなかったし。
小説家と編集長は似てるようで似てない気がする。
悩んでいたら、宝島社が直々に私に挨拶したいと言い出され。
何度も部長の名刺を持つ宇佐美さんという男性社員からお願いをされた。
どうしよう
好きを仕事にしたいけれど、雑誌を作る事は本当に好きな事なのか?
古着屋経営のオファー
そんなある時、「ぽに〜て〜る」の仕事を通して仲良くなった友達から、
下北沢で古着屋をやらない?
という電話があった。
彼女は渋谷でDCブランドのオシャレな古着屋を持つ唯一、同年代、同性の今でも交友のある女友達。
彼女は、面白い事に、渋谷でしか古着屋やりたくないの、だから下北沢は興味ないの!とキッパリと言い切る。
その物件は、、「場所は下北沢西口3分といっても 鎌倉通りから奥まった位置にあり、看板しか見えない建物の、さらに細い螺旋階段を上がった2階。」
「建物は、木造の50年は経過しているボロボロアパート。それを上手く改装して7件の店舗を入れているけど、、狭すぎる。トイレも共同で和式、とにかく全てが古い」
「半年契約でその後、絶対に出ていってもらう。その契約書は公正証書を作りサインを貰う」
「代わりに保証金等一切ない、前家賃15万円のみで良い」
正社員の宝島の編集長と、リスクのある古着屋経営。条件だけ比較すると、今考えても古着屋経営は最悪中の最悪。普通は選ばない。
ドラマ「華やかな誤算」のタイトルからしても若者が起業するなんて、イコール失敗というイメージしか持てない。上手くいってる人なんて周りにあまりいない。そんな中、紹介してくれた渋谷で古着店を営業する友達は成功していた。
今考えても、最後の賃料を含めて最初の格安費用の条件以外は、条件悪すぎ!!
どう考えても、正社員の宝島の方が条件が良いはずなのに、、、
まさかの古着屋経営を選んでしまう。
オファーがあって1年は悩んで出した結果だった。
*でも、宝島社は2015年に倒産してしまうので、私の選択は正しかったのでした。

