• Rococoは全国送料無料!返品もOK♪

  • 起業のきっかけ< 初代前レースクイーン>

    ownerr

    今、初代レースクイーン で検索すると、

    1985年ごろ、日本で初のレースクィーン誕生!
     岡本夏樹、星 杏奈

    1730338030-ThBlMzCSamL45knQcVUtZ3IA.jpg.webp

    などが ヒットするけど、実は、私は、その2年ほど前の1983年の夏の富士サーキット2輪レースで、れーすくいーん?をした。
     でも、ハイレグは着ていないですよ。
     普通の服で旗を振りました。

     それまでは男性が旗を振っていたのに、成り行きで19才だった私が旗を振ってしまっただけでなく、成り行きで、ホンダの2輪バイクのサーキットチームのメンバーに入ってしまったミラクルな話です。

    その時のライダーは、

    草刈正雄主演、映画 汚れた英雄

     のモデルともされたイケメンライダーである。

    (モデルは数人いるとされる)

    さらに、その年代を調べてみたら、ホンダが2輪レースに参戦して力を入れ始めて、結果、ホンダという会社を大きくした年代でした。

     確かに当時は、2輪バイクで速いと言えばカワサキで。車は、日産スカイラインのシャコタンが街を沢山走り、速い車と言えばエンジンが優秀な三菱ギャランやMAZDA、RX7など。
     ホンダは車でも小さなシビック位しかヒットはなく、更に言えば1番ヒットしてるのは、ホンダタクト。私も乗ってた女性にウケた原チャリだけだった。

     今更ながら、ホンダの日本のレース時代の熱い幕開けの直前に旗を振ったその、経緯を書き留めます。

     私が関わった1983年は、前年に伝説の二輪の鈴鹿耐久8時間耐久レースで、日本人がペアで優勝するという偉業を成し遂げていた。大雨で8時間を6時間レースに繰り上げるという前代未聞のレース。

    『1983年』がバイクレース好きにとって、伝説の1年なワケとは?

    ホンダとヤマハがバイクの販売でしのぎを削った時期でもあった。

     ホンダレーシングチームが発足したばかりで、どうやら伝説の一年だったようです。

    自由過ぎた学生時代

     前年の私は.YouTuber西田ひろゆき氏が通った高校とほぼ同レベルの、しかも近くの都内北区の公立高校に通っていました。
     何事も自由な校風で、校則があっても無いような高校。制服があっても私服OK、髪を染めるのも化粧もバイトを制服でしても、誰も咎める者なし。

     中学時代も周りがヤンキー時代の荒れていたお陰で、ディスコに行って夜遊びしても、どんな格好をしていても普通の子として、お咎めなしでした。 

     お陰で、友達と最先端のファッションを心ゆくまで楽しみました。

    →独立のきっかけ2<70s~80sを経験したオーナーが見るVintage>

     高校に入ると早速、原チャリ免許を取って、一番オシャレなホンダタクト(50CC) で登校しました。

     何事もスピード狂で、パトカーを追い越して捕まった事も。高3ですぐに車の免許を取り、社会人になってすぐ車に乗り、ライダーを目指してバイクの免許を取りに行く。当時の夢は大人になったら、ハーレーと、真っ赤なポルシェに乗る事。

     (結果、力が無く、小型の125ccスーパーカブと、真っ赤なベンツになった)

     私服通学OKなので、バイトを掛け持ちでして遊び回って楽しい高校生活を送っていた。バイトの数はゆうに10種類は超えたので、社会勉強にもなりました。(変わった職種では、巫子さん、エキストラなど)

     #卒業式の時に、担任に、「君は全学年生徒(約3〜400人)中、1番最低の成績と最低の出席日数だったのに、ギリギリ卒業出来たよ、おめでとう🎉」と褒められた。

     当然のように、大学へ行こうなど全く思わず。ましてや、頭を下げてまで高校から就職先を紹介して貰うなど考えも及ばなかった。
     父は個人タクシーをしていたせいか車には寛大で。大学に行かないなら、そのお金で車を買ってあげるよ、と。私は4月生まれという事もあり、すでに車の免許は持っていて友達の車も運転していた。
     そして、前の家で要らなくなった、三菱ミラージュを父が買い受け、高校卒業と同時に乗るようになった。

    1983年 社会人1年目はパワハラから

     そこで新聞広告で探した、車やバイクの部品メーカーの社員に面接に行って難なく合格した。
     なにせ、かなーり辺鄙な埼玉にも近い場所。駅から遥か遠い。誰も応募しないだろう。私は私で、広い駐車場を見て、車で通って良いですか?と条件を出したほど。

    春から入社したものの、新入社員は私と山形の本社から来た大卒の男子だけ。

    他は、偉い人順から、、、

    社長夫婦、そのお付きの夫婦、男性社員、社員の職人、私のような新人社員、パートの女性、中卒で行く当てもなく彷徨っているバイトの男の子達(部品の組み立てや力仕事で生かされる)

     ちなみに、私の人生の中で、会社員生活は、この1年だけ。希少な1年間となった。

     貰ったポジションは、営業部長の33才の独身男性の1人部下。

     嫌味ばかり言って仕事もくれないパワハラ上司。

    思った事を言ってしまう私とは相性最悪。私が泣くまで人前でやり込められる。

    言い返すとますます猛攻撃パワハラを受けてしまう。

    仕事は与えられない。仕事を見つけてやれば

    君は仕事しなくていい!足を引っ張るな!

    とまで言われる😭 ついには

    余計なことするな!いなくたっていいんだ❣️

    パワハラという言葉も無かった時代。

     何度、泣いた事か、、😭😭

    それだけではなく、女性陣.特にお局様達から3時のお茶の件で総スカンを食らう。

    お局様(中年の社員やパートの女性)が中心にお菓子などを差し入れて、お茶を全員に配る。
     ちなみに、お菓子の差し入れを最後まで一度もしなかった私。なんて奴だ😓

    それぞれが持ってきた湯呑み茶碗を2〜30人はいる男性に配るから、それぞれの湯呑みを覚えないといけないとお局様に最初に言われた。

    ところが、お茶を配ると、男性の
    「本当はいらないよ。好きな時に飲みたいし、お礼言うのも面倒」
    という声が私の心に聞こえてきた。

    男女雇用均等法なんて出来る相当前の事。

    30分はかける女性全員でのお茶出し。
    無駄以外の何ものでもない。

    そして、無駄な事が大嫌いな私は、御局様もいる場所で、こう提案した。

     「お茶は飲みたい人が飲みたい時に出せば良いのではないですか?今、お茶の機械も売ってるみたいですよ。」

    と。

     生意気にもみんなに賛同を得ようと提案したら、男性には賛成してもらえたのに、お局様から嫌われた。

    後々に理解したけれど、女性達がお茶の準備をしながらの井戸端会議をしたかった、その時間を奪う事は許されなかった。 
    今でも意味のない井戸端会議は苦手である。

     総スカンを受けたため、休み時間には、外に出て、車好きの中卒の男の子達と車やバイクの話ばかりしていた。当時は、車の部品を見ただけで車種を当てられた。帰りは首都高をルーレットして走る。暴走族ではない。大人しくハイスピードで走ってコーナーリングをギリギリで攻める、気分はレーサーだった。そして夢はレーサー。ハーレーダビットソンに乗り、真っ赤なポルシェに乗る事だった。(結果は、125CC のスーパーカブと、赤いベンツとなった)

    初めての仕事はHONDAへ。

    ある時、パワハラ上司から、ホンダ狭山に試作品を運ぶ仕事をゲットした!

     パワハラ上司や職人さんが開発した試作品。それをただ届けに行く時間が勿体無いと、こぼしていた。
     今ではバイク便があるけど、当時は無いので誰かが届けに行かねばならない。上司が届けに行くとその分、大事な開発が遅くなる。
     打ち合わせは、ホンダ担当者も忙しいので届けに行った時に出来る訳でもなく。
     打ち合わせはお互い電話で済ませたい。
     
     それでは、その仕事、私がやります!

    丁度、お茶の時間の3時頃からの仕事というのも好都合。ガソリン代も出たし、大好きな運転も出来るし、結果、給料も増えるしで、良い事ばかりの仕事にありつけた。

    パワハラ上司は、ホンダの場所は関越道を通って片道1時間の狭山工場なので事故るのではないか?と、嫌味を言ってきたけど、

    大丈夫です!と言い切った。
    (カワサキやマツダなどにも行った筈だけど全く記憶にない)

     行く時は、基本、その会社の車で行くのがマナーだ。
    が、ある時ホンダのシビックなど出払ってた。

    そんな時は、別のメーカーの車で行っても大丈夫。
    というのも聞いていた。だから私の車で行く。(かなり重宝された)

    だけど、ホンダ狭山の広大な駐車場に着くと、ホンダ車ばかりで、私の三菱ミラージュは浮く。

    そんな時、いつもホンダの敷地の周りの道路の端に車を置いた。

    その日もギリギリで車を幅寄せしようとした。

    幅寄せはコーナーリングとともに、得意分野なはずだった、、

    突然、、とんでもないアクシデントが起きた❣️

    車の右後輪が溝に ドスン!!と、落ちたのだ❣️

    スマホも無い時代。周りを見回しても公衆電話も無さそうだ。
    会社に助け船を出す事もできない。

    JAFを呼んでも良いけど時間がかかるし、そもそも電話が無い😓

    そして、約束の届ける時間、4時が目の前だ。

    そこで、まずは試作品を届ける事にした。

    いつものように担当者に試作品を手渡した後、、
    ダメ元で、勇気を振り絞ってお願いした。

    すみません、車が溝に落ちてしまったので、JAFを呼びたいのですが、電話をお借り出来ますか❓

    と。。

    電話代、お支払いします、
    とまで言った覚えもある。

     他に方法は見つからなかった。

    すると、、担当者が、あっという間に男性を集めて、

    私の車に案内するように言われ、5人位かけて、ジャッキを使って、溝から生還してくれた。

    その光景は、なんだか奇妙だった。
    みんなホンダのユニフォームを身につけてるのに、三菱ミラージュを助けてくれたのだ。

    そして、次からは堂々と広い駐車場に止めなさい!

    と、なんだか、みんなに笑われた記憶もある。

    会社に帰り、パワハラ上司に報告したけど、さらに怒りを買っただけ。

     何でそんな所に置いたんだ⁉️と。

    私は落ち込んだ😓😓😓

     ロッカーで泣いた覚えが蘇る。

    2度と試作品運びの仕事は来ないかもしれない。と。なにせ、大丈夫です!と啖呵を切って自ら志願した仕事なのだ。
     ホンダに失礼な事をした。それによって仕事が来なくなったら⁉️と震え上がった。

    突然のHONDAチーム入り

    ところが❣️1週間程たった後、、

    ホンダから、

    次の二輪レースに来ないか?と、パワハラ上司ともども、私も名指しで呼ばれたのだ。

    パワハラ上司が、それを受けてビックリ‼️

    周りもビックリ‼️

    日曜なので、じゃあその分の給料が出るかといえば、出ない。
     でも、ジャッキで助けてくれたのに断るのは失礼だ。

     周りにも入りたくたって入れないレースチームなんだ❣️と言われ、ただならぬ凄い機会を感じた私は、無償でも行く事にした。

     と、いうか私に断る権利はなかった😢

    そして、二輪レースのHONDAチームに加わる事となった。

     ホンダのチーム担当者がうちの会社に来る回数も増えた。ジャッキで助けてくれた人もいて、その度にお礼を言った。

    その中で解ったのは、私が持ち込んだ試作品のアンダーカバーという部品がレースで使われる事になったらしい。

    だから、パワハラ上司他数人の上司と、何故か私が呼ばれた。どうやら、ジャッキ事件が社内で評判になり、ウケたらしい。もしかしたら、ホンダもその貸しがあるから、私達は断らない、と思って声をかけたのかもしれない。

     1983年の鈴鹿8時間耐久レースに参戦するための予備レースで、富士スピードウエイに大きな車に乗りみんなで行く事になった。

    もうパワハラ上司は私をみんなの前で虐めることをしなくなっていた。
    相変わらず女性一同からは嫌われてはいたが。

    富士に行く日曜の当日、待ち合わせの場所から、何か嫌な予感がした。

    汚れた英雄と旗振り

    もしや、、女性は私1人⁉️

    到着して、与えられたホンダチームの部屋に入ると、作業服だらけの男性達と、汗と油の匂いの部屋の中で、スカートを吐いていた私は、ただ来た事にさえ後悔していた。

    場違い・・・

     しばらくして、ワンピースを着ている女性が部屋に入って来てホッとした❣️
     ホッとしたのも束の間。
     自分と違う絶世の色気パーフェクトな大人の美女で驚愕した。

    が、、その隣に、これまた絶世のイケメンがいた。

    本日の750ccに乗るライダーだった。

    後に知ったけど、草刈正雄主演の映画、汚れた英雄のモデルと言われた男だった。(モデルは何人かいるが、外見的にはこのライターだ)

    ここまでのイケメンと美女の度数は、人生の中で1番だと思う。草刈正雄よりオーラがあった。

    レースに備えて、みんなそれぞれの部門で準備をする。ジャッキをあげて1つ1つボルトの締まりを確認して、エンジンも何度もチェックする。

     優勝を目指しているし、何よりも命がかかってるレースならではの緊迫感。

     物凄い情熱❤️‍🔥がビシビシ伝わってくる。

     私は何度も手伝おうとしたけど、やっぱり邪魔なだけだった。

    それこそ、あれ程嫌がってたお茶汲みさえしようとしたが邪魔なだけ。そんなの自分でやるよ、と😭

    そのあと、その部屋からみんな出るよう指示された。

    部屋に残るのは、イケメンレーサーと美女だけ。

    誰かが、

    最後の別れになるかもしれないからね、、
    と言った。

    そう、命を落とすかもしれないのだ。
    ギリギリのコーナーを責めなければ勝利が無い。

    ローで入って徐々にスピードを上げる事をコーナーを攻めるというのだが、そのさじ加減でバイクだから体が吹っ飛ぶ。

    多分、抱き合って最後の別れになるかもしれない時間を過ごしているのだ。

    ふと、我に返った。

    私は仕事らしき仕事をしていないじゃないか?

    命をかけた情熱的な仕事

    同性を見つけたは良いが、彼女はレーサーの心の拠り所になっている。
    私は何をしたのか?何もしてないよね?と。

    ましてや主役のライダーはこれから命を落とすやもしれないのだ。

    そこで、私は、言った。

    何かお手伝い出来る事はありませんか❓と。

    すると、、、

    ここに旗があるから、コレでも振ってみる?
    いつも男性がやるけど。旗振り仕事なら、誰がやっても同じ、バイクのメンテナンスより命に関わらないからね、でも、凄く重いよ⁉️

    重くても私やります❣️

    そして、私はバイクが来るたびに旗を無我夢中で振りました。それこそ情熱をかけて。

    確かに大きくて重かったけど。

    MotoGPを楽しむ上で欠かせないフラッグの意味を解説 そしてそのフラッグでレース展開はどうなるの? | モトコブログ

    *イメージ画像を探したけど、これしか見つからず。当時は危険を顧みず、バイクが走り抜けるたびに、重い旗を振ったのです。

     

    レースクイーンという名前が、暫くしてから聞くようになった。

    で調べても

    1960年代後半に小川ローザらがサーキットでモデルとして活躍したのが起源といわれている[1]。以後その形態にあまり変化はなく、開会式や表彰式のアシスタントとして従事する程度であったが、1984年に開催された日本最高峰のオートバイ耐久レース「鈴鹿8時間耐久ロードレース」で、一部チームのキャンペーンガールがチーム名のロゴマークを入れた水着を着て応援し、話題となった。

    やはり、早くても1984年に、レースクイーンという言葉が出たようです。私は1983年の6月頃にやりました。

    私はハイレグ水着ではありません。

    普通の服で旗を振って応援しました🤗

    その後も、チームの飲み会も何度も参加した。
    あの美女が経営するスナックは家から近かった。イケメンレーサーも現れるがあまりのオーラの為、会話も出来ず・・

    棚からぼた餅の年に

     その年は東京ディズニーランドがオープンした年。ホンダの社員さんも加わってみんなで行った。(パワハラ上司もいた)

    でもレースのチームに私が参加したのは、あの時一度だけ。
    鈴鹿は泊まりがけだし、流石に私を連れて行く訳にはいかなかったのでしょう。
     今なら、部品のメーカー社員がチームホンダに入って手伝うなんて話は無い事だけど、当時のホンダは本格的にレースに参戦するかしないか?の直前で予算も含めて紆余曲折の時期だったのだろうと思う。ただ、車やバイク好きな人にお呼びがかかった。そんな時代だった。

    富士に連れて行って貰ったのは、近くて1日の日帰りだし、合格した部品の開発部門のアシスタントとして声がかかったのもあったのでしょう。私が持ち込んだアンダーカバーが採用されたので縁起担ぎのような。
     でも結果、レースの順位も良くなかったし、何も出来ませんでしたが😓

     ただ、会社のポジションも上がり給料も上がってボーナスも特別に頂けた、棚から牡丹餅のような1年間でした。
     やったのは、、試作品運びと旗振りだけだったけど😅

    あのとき、パワハラ上司と喧嘩したり、3時のお茶汲みに批判しなければ、そういうコースは無かったなあ、と思います。

     そして、あの時のホンダチームと、絶世の美女とライダーの衝撃的な出会いは、私の人生を大きく変えた一コマでした。

     その後、ホンダは世界を目指して活躍していくのですから、その先駆けのパワーを頂けたのです。

     情熱と命をかけて成し遂げる仕事がある事に魅せられました

     起業して自分で仕事を始めるキッカケになった、一つの出来事でした。

      また、車を運転出来た事はその後もかなり仕事に生かせました。

    とりあえずライダーを目指す

     上司のパワハラは、しばらくすると又始まり、お茶の時間は相変わらず。

     ただ、いるだけで給料が貰える、サボってばかり、会社の愚痴ばかり、人の陰口ばかりの会社勤めに嫌気がさし、、

     そこで、750ccライダーを目指して会社を辞めました。

     まずは大型のバイク免許を取りに行きました。

     あれほど練習していったのに、、教習所で倒れた750ccバイクを起こせず(涙

     教官は笑いながら、小型免許から取るように!と。

     結果、小型免許まで取ってカブというバイクまで乗りましたが、、あまりの力の無さでライダーへの夢は諦めました 笑

    owner 青木由美ヒストリー

    →起業のきっかけ<70s~80sを経験したオーナーが見るVintage>
    FavoriteLoadingお気に入りに入れる

    Translate »
    Verified by MonsterInsights